三鷹駅「永遠のライバル」吉祥寺と切磋琢磨の歴史

東洋経済オンライン
スクラップは会員限定です

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

JR三鷹駅の南口。こちらは三鷹市側だが、反対側の北口は武蔵野市になる(写真:kuremo/iStock)

東京都三鷹市に所在する三鷹駅は、2020年に開業90周年を迎えた。中央線の特快が停車する駅周辺はにぎやかな繁華街が形成され、三鷹市の玄関駅という風格が漂う。

しかし、駅の南口が三鷹市であるのに対して、北口は武蔵野市となっている。これは市境となっている玉川上水の真上に三鷹駅が開設されたという立地上の事情による。

市境にもかかわらず、三鷹駅という一方の自治体名が採用された。これが、長年にわたって三鷹市と武蔵野市のライバル関係をヒートアップさせる火種としてくすぶりつづける。

市境にもかかわらず、どうして三鷹駅という片方の自治体名をそのまま採用してしまったのか? それは、三鷹駅の開業時にはすでに武蔵野市(当時は武蔵野町)内には吉祥寺駅や武蔵境駅が開設されていたことが理由として挙げられる。

開業は吉祥寺駅の約30年後

武蔵野町が市へと昇格したのは1947年。追いかけるように、三鷹町は1950年に市へと昇格する。以降も三鷹市と武蔵野市は、よきライバルとして火花を散らしてきた。

しかし、駅の歴史という観点から眺めると、三鷹は武蔵野に及ばない。武蔵野市に所在する吉祥寺駅は1899年に開業。対して、三鷹駅の開業は1930年。そこには、30年以上もの差がある。さらに、吉祥寺駅は住みたい街ナンバーワンの常連。一方、三鷹駅がランキング上位に食い込むことは少ない。

三鷹市の観光名所である「三鷹の森ジブリ美術館」。駅の周辺には案内板が点在(筆者撮影)

それでも多くの文士が三鷹に住み、2001年には三鷹の森ジブリ美術館がオープンするなど文化・芸術が漂う都市となっている。

そもそも三鷹駅も吉祥寺駅も高度経済成長期以前は東京郊外でしかなく、大正期までは農村というよりも雑木林があちこちに残るエリアだった。宅地化していくのは、1923年に起きた関東大震災以降だ。すでに駅が開設されていた吉祥寺駅一帯は郊外化の流れを受けて人口が急増し、それを受けて中央線の運転本数が増えることになる。

1929年、鉄道省は中央線の運転本数を増やすために中野電車庫三鷹派出所(現・三鷹車両センター)を開設。同時に三鷹信号場が設置された。翌年、同信号場は駅へと昇格し、三鷹駅が開業する。当初、駅には南口しかなかった。

三鷹車両センターに並ぶ中央・総武線各駅停車の電車(筆者撮影)

三鷹駅と吉祥寺駅と比べると、駅周辺のにぎわいは雲泥の差だった。それでも駅が開設されたことによって三鷹駅は急速に巻き返していく。

三鷹に活況をもたらしたのは、軍需産業だった。多くの軍関連の企業が三鷹・武蔵野一帯に広大な工場敷地を求めて進出。なかでも三鷹に大きく影響を及ぼしたのが、1938年に開設された中島飛行機の武蔵製作所だった。武蔵製作所は武蔵野町に立地していたが、最寄り駅は三鷹駅だった。そのため、工場で働く労働者が三鷹駅を利用することになり、駅前はにぎわうようになる。通勤する労働者の利便性を高めるため、1938年には北口が新設された。

そして1941年には、武蔵製作所の西隣に新工場の多摩製作所が開設。武蔵野製作所は陸軍用、増設された多摩製作所は海軍用の航空エンジンを製造した。1943年には両工場は統合されるが、同工場で製造される航空エンジンの国内シェア4分の1を占めるほどにまでなっていた。

中島飛行機への引込線

武蔵製作所には、三鷹駅のひとつ西隣となる武蔵境駅から貨物輸送を円滑にするための引込線が2本も敷設されていた。1941年に中島飛行機の研究機関となる三鷹研究所が開設されると、武蔵境駅から多摩湖鉄道(現・西武鉄道多摩川線)の線路を走り、さらに三鷹研究所までつながる引込線が建設される。

1944年には、武蔵製作所から北へと延びる引込線も建設される。武蔵製作所から北へと延びる引込線は中島航空金属田無製造所へ、そして中島航空金属田無製造所からは武蔵野鉄道(現・西武鉄道池袋線)の東久留米駅へとつながる路線が敷設された。

そうした点から見ても、三鷹が農村から脱却して発展する過程に中島飛行機、特に武蔵製作所の影響は大きい。武蔵製作所を抜きにして、三鷹駅の発展を語ることはできない。

武蔵境駅から延びていた引込線は敗戦とともに廃止される。しかし、武蔵境駅から延びていた線路は、新たに三鷹駅へとつながるように改良。1951年に中央本線の支線として復活し、武蔵野競技場線と通称された。

武蔵野競技場線が復活した背景には、プロ野球の影響があった。もともと、プロ野球は阪急電鉄総帥の小林一三が鉄道会社の集客戦略として考案し、各鉄道会社がチームを保有する電鉄リーグを提案していた。この構想は実現しなかったが、多くの鉄道会社がプロ野球チームを持ち、集客戦略として活用した。そして、それは私鉄だけではなく、国鉄も同じだった。

三鷹車両センターに架かる跨線橋。文豪・太宰治がよく通っていたことでも知られる(筆者撮影)

1950年、日本のプロ野球にセ・リーグとパ・リーグが正式に発足。大戦中、野球は敵国のスポーツとして忌避され、プロ野球も大の大人が遊んでいると世間から白い眼で見られていたが、戦災復興で野球は多くの国民に希望を与えることになる。

国鉄2代目総裁の加賀山之雄は国民人気が高まっていたプロ野球に着目。加賀山は国鉄の前身である運輸省鉄道総局長在任時に軟式野球チームを結成してピッチャーを務めるほどの野球好きだったため、国鉄の外郭団体である交通協力会の理事長だった今泉秀夫からプロ参入を持ちかけられると、すぐに検討を開始した。

今泉が収支のシミュレーションをしたところ、プロへと参入すると年間1000万円の赤字になると判明。プロ野球参入前の国鉄にはスターが不在で、高額な年棒を払うような選手はいない。それでも当時の金額で1000万円もの赤字が出る。1949年に公共事業体として発足したばかりの国鉄にとって1000万円は重い負担であり、それら赤字を税金から補填することは世間が理解してくれるはずがなかった。

スワローズの本拠地に

それでも、加賀山は1950年シーズンから国鉄スワローズのプロ野球参入を決めた。そこには、プロ野球へと参入することで国鉄職員の士気高揚と世間が国鉄に抱く負のイメージを払拭するという意図があった。1949年には三鷹駅で無人電車が暴走する「三鷹事件」をはじめ、下山事件・松川事件と、後に「国鉄三大ミステリー」と言われる事件が続き、国鉄内部には沈滞ムードが漂っていたのだ。

国鉄は武蔵製作所跡地にオープンした武蔵野グリーンパーク野球場をホームスタジアムに定める。武蔵野グリーンパーク野球場は武蔵野文化都市建設株式会社が建設し、1950年に株式会社東京グリーンパークへと改称している。

社長には東海大学総長で後に衆議院議員を歴任する松前重義が就き、そのほか作家の武者小路実篤、日本初のマルチタレントとも称される徳川夢声、内閣総理大臣を務めた近衛文麿の弟で音楽家の近衛秀麿など文化人が役員に名を連ねた。

同球場の足には武蔵野競技場線が活用されるが、当時の感覚では都心から離れているということで不評だった。そのため、国鉄スワローズはワンシーズンだけしかホームスタジアムとして使用せず、以降の武蔵野グリーンパーク野球場は細々と使用されるだけになっていた。

1956年に野球場は解体される。その翌年には、日本住宅公団が約7ヘクタールの跡地に1019戸の緑町団地を建設。武蔵野競技場線は野球場がなくなったことで不要となり1959年に廃止される。団地住民の足として利用価値はあったはずだが、そうした検討はされなかった。わずかな期間だけ存在した武蔵野競技場線は、鉄道ファンや野球ファンの間では語り草になっている。

高度経済成長期を迎えた三鷹は宅地化が進み、それに伴って人口を増やしていった。当然ながら三鷹駅の利用者も増えていく。現在の三鷹駅は中央線のみだが、当時は人口増加を見込んだ多くの鉄道計画が浮上した。

こんなにあった「新路線計画」

もっとも熱が入っていたのが京王帝都電鉄(現・京王電鉄)だった。京王はすでに渋谷駅―吉祥寺駅間の井の頭線を運行しており、さらに吉祥寺駅から北進して東久留米駅までの路線や、井の頭線の途中駅である久我山駅や富士見ヶ丘駅から分岐して三鷹駅へと至る路線などを計画していた。富士見ヶ丘駅―三鷹駅間の計画路線は、実際にダイヤグラムも作成されて約12分間隔での運転が想定されていた。

クラシックな雰囲気が漂う三鷹駅北口(筆者撮影)

その一方、京王は新宿駅―富士見ヶ丘駅―西国立駅間の路線も計画していた。この路線は富士見ヶ丘駅―三鷹駅間と競合するため、富士見ヶ丘駅―三鷹駅の申請は取り下げられた。京王は富士見ヶ丘駅―西国立駅間へと集中することに方針変更したわけだが、結局こちらも実現しなかった。

そのほか、武州鉄道という新しい鉄道事業者が三鷹駅もしくは吉祥寺駅から埼玉県秩父市の御花畑駅とを結ぶ路線を計画していた。武州鉄道が目指した御花畑駅へは、西武鉄道が西武秩父線の建設を計画していた。また、西武は武蔵境駅から田無駅方面へ線路を敷設する計画も温めていた。

両社は競合関係としてしのぎを削ることになるが、すでに鉄道事業者として実績がある西武に対して、武州鉄道はまったく実績がない。また、経営陣も鉄道事業の経験がない素人集団だった。それゆえに、武州鉄道の上層部は路線を新設できるか不安を抱いていた。路線新設を急ぐあまり、同鉄道の上層部は政界工作をしかける。それが疑獄事件として明るみに出たことから、計画は頓挫してしまう。

戦後から高度経済成長期にかけて百出した三鷹駅からの路線は、結局は武蔵野競技場線以外に実現することなく、同線も短命で幕を閉じた。

武蔵野は1947年に、三鷹は1950年に市制を施行。三鷹市は、隣接する武蔵野市とともに成長を遂げてきた。市制を施行した直後から、三鷹と武蔵野は力を合わせてまちづくりに取り組もうという機運が高まる。

「鉄道最前線」の記事はツイッターでも配信中!最新情報から最近の話題に関連した記事まで紹介します。フォローはこちらから

1954年には三鷹・武蔵野のほか小金井町(現・小金井市)、田無町と保谷町(ともに現・西東京市)による合併が議論された。1954年の合併議論は、早々に小金井町・田無町・保谷町が協議から離脱。三鷹市・武蔵野市の2市間で合併議論は続けられたが、立ち消えとなった。三鷹市・武蔵野市の2市での合併議論は1958年に再燃するものの、これも実現せずに終わっている。

その後、三鷹市と武蔵野市は不即不離の関係を保ちながら現在に至っているが、中央線をめぐる諸問題においては、たびたび意見の相違でぶつかり合っている。

「武蔵野三鷹駅」へ改称運動も

1967年に運行を開始した中央線特別快速は「三鷹駅は停車・吉祥寺駅は通過」というダイヤが組まれたため、武蔵野市側から強烈な反発を招いた。中央線特別快速の運行は中央線の複々線化によって実現するが、吉祥寺駅は特別快速の停車という恩恵を受けないながらも複々線化に合わせて駅を改築。一方、特別快速の停車という恩恵を受ける三鷹駅は腰を上げようとしなかった。特別快速が運行を開始した翌年、ようやくホームの改良に着手。1969年に橋上駅舎を完成させた。

駅舎改築が遅れたのは、三鷹駅が玉川上水の上に位置しているという地理的な要因による。玉川上水の上にあるため、難工事が予想されたからだ。しかし、もっと深刻な理由もあった。それが武蔵野市側から改築に合わせて駅名を改称してほしいと要求されたことだった。

北口は武蔵野市のため、同市が運行するコミュニティバス「ムーバス」が発着する(筆者撮影)

先述したように、三鷹駅は南口が三鷹市で北口が武蔵野市となっている。市境にある駅だから、武蔵野市は武蔵野三鷹駅へと改めるべしと主張した。当然、三鷹市がそれを受け入れることはなかったが、武蔵野市は国鉄総裁に陳情するといった改称運動を展開する。その後に三鷹駅の改称問題は何の動きも見せていないが、北口を武蔵野口へと改称しようという動きはいまだに存在する。

駅を境にした三鷹市と武蔵野市の対抗意識は、時代を経ても変わる気配がない。昨年から感染拡大がつづく新型コロナウイルスは今年に入っても収束する気配を見せていないが、そのコロナ対応でも三鷹市と武蔵野市の明暗が分かれることになった。今年4月12日から適用されたまん延防止等重点措置では、武蔵野市が適用対象エリアに指定されたのに対して三鷹市は適用外になった。

駅の南北で対峙する三鷹と武蔵野は、永遠のライバルとして切磋琢磨を続ける。

無断転載・複製を禁じます
スクラップは会員限定です

使い方
2262597 0 東洋経済オンライン 2021/08/12 09:59:23 2021/08/12 09:59:23 2021/08/12 09:59:23

ピックアップ

読売新聞購読申し込み

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)