東武と国鉄が火花、「日光」の観光は鉄道が育てた

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1912年に竣工した2代目のJR日光駅はハーフティンバーの木造洋風建築だ(筆者撮影)

東武鉄道は、団体臨時列車として下今市駅―東武日光駅間で運行している蒸気機関車(SL)列車「SL大樹ふたら」を10月から定期運行へと切り替えると発表した。あわせて、11月の週末には浅草駅―東武日光駅間で臨時夜行列車「日光紅葉夜行」を運行することも発表した。

1955年から1998年まで、東武は臨時列車「日光山岳夜行」を運行していた。かつて東武と国鉄(現JR)は、日光への観光客をめぐって激しく火花を散らすライバル同士だった。両者の争いは、2006年に相互乗り入れを実施することで完全に終結。以降、東武とJR東日本は一致団結して日光の観光振興に取り組んできた。それは外国人観光客の増加という目に見える成果として表れていた。

しかし、昨年からのコロナ禍によって、外国人観光客はおろか観光客そのものが喪失。観光客減は日光のホテル・旅館をはじめとする観光産業に大きな打撃を与えている。

幕末期に外国人が注目

日光観光の目玉といえば、格式ある日光の社寺だろう。江戸時代から徳川将軍家によって手厚く保護されてきた。日光街道が整備された江戸初期には、将軍や大名といった有力者だけではなく日光参詣が庶民にも広がった。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で立ち寄ったことで、人気はさらに上昇。しかしブームは長く続かず、江戸後期には沈静化してしまう。

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日本人の参詣者が減少する中、幕末期に来日した外国人たちが新たに日光に着目。東京と日光の間は馬で移動するしかなかったが、日本の暑い夏に耐えられなかった外国人たちは移動の面倒を顧みず、過ごしやすい日光に夏季だけ居を移した。

こうした需要の高まりにより、1872年には東京府の千住と栃木県の宇都宮を結ぶ馬車会社が営業を開始。移動時間は一気に短縮し、1日で東京から日光の玄関口であった宇都宮まで行くことが可能になった。

東京と宇都宮の距離が近くなったことで、にわかに日光ブームの兆しが見え始めた。その頃、矢板武や安生順四郎、印南丈作といった栃木県の有力者たちによって、日光の社寺建築を保全する団体「保晃会(ほこうかい)」が立ち上げられる。彼らは後に那須野が原開拓を推進することになるが、保晃会は幕府の庇護下から離れていた東照宮を支援することを目的にしていた。

日光を代表する観光名所の1つ、東照宮の陽明門(写真:gandhi/PIXTA)

発足直後の保晃会には目立つような活動はなかったが、1876年の東北巡行の途中に明治天皇が日光に宿泊し、名所や社寺を巡覧。さらに1879年には、伊藤博文が来日したユリシーズ・グラント第18代アメリカ大統領を日光へと招待。グラントが絶賛したことで、日光は広く知られるようになる。こうして保晃会の活動は地元の銀行のみならず、東京を拠点とする第一銀行、三十三銀行からも経済的な支援を受けられるようになった。

鉄道開業で身近な観光地に

そして、一般庶民にとって日光を身近にしたのは鉄道の開業だった。

日本初の鉄道である新橋(後の汐留駅)―横浜(現・桜木町)間が1872年に開業すると、全国各地で鉄道建設を求める声が相次いだ。だが、政府は同区間の建設に莫大な費用を投じたため、経済的な理由から各地で要望があった新規路線の建設を凍結していた。そうした事情もあり、1883年に民間資本による日本鉄道が設立された。

日本鉄道はまず上野駅―熊谷駅間を開業し、翌年には高崎駅まで延伸。日本鉄道が高崎方面を目指したのは、上州で生産される生糸を輸出港の横浜へと迅速に運搬することが目的だったからだ。本来は東北地方を目指していたので、以降は上野―高崎間の途中にある大宮駅から線路を分岐させ、東北方面へ線路を延ばしていく。

そして、1885年に大宮駅―宇都宮駅間が開業した。開業時は利根川橋梁が未完成のため船による連絡を要したが、それでも馬で約12時間を要した同区間は約5時間に短縮。翌年に利根川橋梁が完成すると、さらに所要時間は短くなった。

東京と宇都宮が鉄道で結ばれたことで、日光は多くの外国人観光客でにぎわうようになる。しかし、東京から向かう旅行者は宇都宮で1泊する必要があった。そのため、東京の人々にとっては「日光は遠い」というイメージが残っていた。それを解消したのが1890年に開業した日光鉄道(現・JR日光線)だった。

保晃会を経済的に支援した第一銀行や第三十三銀行には、今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一が設立・経営に大きく関わっている。そこからもわかるように、渋沢は日光のポテンシャルに着目していた。

渋沢は宇都宮から日光まで鉄道を建設するよう、保晃会を立ち上げた有力者の1人である矢板へアドバイス。その助言にしたがって、矢板は日光鉄道の建設を政府へと願い出た。こうして日光鉄道が設立されることになる。渋沢は発起人として、保晃会は株主として同鉄道にかかわることになった。

当初、日光鉄道は鹿沼、今市を経由して日光へと到達するルートだった。しかし、作業員を手配できないことから建設工事は遅々として進まず、歳月の経過に伴いルートは変更されていった。また、紆余曲折を経るうちに資金も底をついてしまう。日光鉄道は渋沢の斡旋で日本鉄道に支援を求め、宇都宮駅―日光駅間は同鉄道の支線・日光線として開業した。これにより、東京―日光間の所要時間は5時間に短縮された。

この頃から、「来晃は鉄道で」が盛んに叫ばれるようになった。「晃」を崩すと日と光になる。つまり、来晃とは日光に来ることを意味する。それ以前より来晃という言葉は使われていたが、鉄道の開業がこの言葉を流布させたことは間違いない。

増えたのは「日帰り客」だった

日光に鉄道が乗り入れたことで地元の期待通りに観光客は増えたが、目論見通りにはいかなかった。日光線の開業によって、上野駅を朝一番で出れば午前中に日光へ到着できるようになり、社寺を見学して夜の列車で東京へ戻ることが可能になってしまったのだ。つまり日帰り客は増えたが、宿泊需要は高まらなかった。そのため、期待したほどの経済効果は得られなかった。

洋館のJR日光駅は1階に貴賓室もある(筆者撮影)

それでも、歳月とともに観光施設が整備され、日光駅周辺は観光客でにぎわうようになった。他方で静かな日光を楽しんでいた外国人や富裕層は、観光客の少ない奥日光へと移っていく。そのため、奥日光には皇族や三菱の総帥・岩崎弥之助、外国人たちの別荘が立ち並ぶようになった。

一方、日光駅は利用者の増加に加え、皇族をはじめ首相や大臣といった政府高官も頻繁に訪れるようになったことで拡張の必要性が生じた。1912年に駅舎を改築し、さらに1922年にはイギリスの皇太子が来日し、日光へ立ち寄る予定が組まれたことを受け、駅の貴賓室が改修された。

鉄道の開業以降、日光は避暑地・観光地としてブランド力を高めていったが、駅から社寺群までの交通手段は徒歩か人力車だった。主に観光客は人力車を利用していたので、駅前にはたくさんの人力車が客待ちをしていた。だが、いくら力自慢の車夫でも、山岳地帯の日光を長時間走り続けることは体力的な消耗が激しい。しかも観光地や別荘地は奥日光方面へとシフトしていた。そうした状況から、奥日光への鉄道計画が浮上する。

この鉄道は上野駅から日光駅まで走っているような「汽車」ではなく、電車とすることが最初から決まっていた。当時、電車といえば路面電車のことを意味したが、電車運行には電気を供給する必要があった。鉄道計画は地元の日光町(現・日光市)が主導したが、1906年から日光電気青銅所を操業していた古河鉱業(現・古河機械金属)の存在が電気鉄道を実現できた要因ともいえる。

古河鉱業を興した古河市兵衛は、幕末まで下級武士だったために元手となる資金がなく、渋沢栄一から資金協力を受けて鉱山事業を開始。1878年に政府が所有していた新潟県草倉銅山の採掘を手がけたことを皮切りに、全国で鉱山事業を展開した。銅の精錬には大量の電気を必要とするので、工場は発電所の近くに開設しなければならなかった。水力発電所のあった日光は適地だったため、日光に精錬所が開設される。電気精錬所により銅の生産量が増え、それが発電所の規模を拡大させるという循環を生んだ。

精銅所がもたらした「電車」

鉱山事業・精錬事業が拡大したことで、古河は足尾鉱毒で世間を騒がせることになるが、日光に開設された精銅所は大量に電気を使うことから、その余剰電力を電車の運行に転用できる。そうした事情から古河が資本参加した日光電気軌道(のちの東武鉄道日光軌道線、1968年廃止)が、1910年に日光駅前―岩ノ鼻駅間を開業。1913年にはいろは坂の登り口である馬返駅まで延伸し、奥日光の観光名所でもある中禅寺湖へのアクセスが向上した。

東武鉄道日光軌道線を走っていた電車。1968年に廃止された(写真:モリゾ/PIXTA)

一方、足尾で採掘された銅は日光へ運ばれていたが、当時は馬で運搬していた。スピードアップの観点から、同ルートへの鉄道建設計画も古河を中心に浮上。この路線は実現しなかったが、同計画がきっかけとなりケーブルカーの日光登山電気鉄道(後に日光登山鉄道に改称)が誕生する。ケーブルカーは1932年、日光電気軌道と馬返駅で接続する形で開業。翌年には明智平駅―展望台駅間のロープウェイも運行を開始した。

日光駅前から発着していた路面電車、馬返で接続していたケーブルカー、そしてケーブルカーから乗り継ぐロープウェイは、すべてその後に東武グループへと組み込まれる。こうして東武は浅草から奥日光までカバーする日光観光の一大プレイヤーとなった。

東武の日光進出は1929年、同社の日光線全通に伴い浅草駅―東武日光駅間の直通運転を開始したことから始まる。東武は臨時特急を運転し、時速100km超の速さをPRしたほか、翌年には展望車を連結するなどサービスの充実も図った。高まる日光人気を受け、東武は地元民しか利用していなかった小さな湯治場である鬼怒川温泉にも着目する。日光から距離的に近いこともあり、鬼怒川と日光は東武によって同時開発されていった。そして鬼怒川の観光開発は、日光にも相乗効果をもたらした。

1931年に中禅寺湖が国の名勝に指定されると、日光町は観光課を設置。同年には東武が特急列車を定期運行へと切り替える。1935年には特急向けとして車内にシャンデリアをあしらった豪華車両のデハ10形を導入した。

日光観光の玄関口である東武日光駅(筆者撮影)

東武の日光・鬼怒川への情熱には目を見張るものがあったが、太平洋戦争が勃発すると事態は一変する。観光需要は減退し、さらに東武日光線の合戦場駅以北の線路は金属供出の対象となり、複線だった線路は単線化されてしまう。国鉄・私鉄を問わず鉄道は戦争に翻弄されたが、東武は広大な路線を有していたこと、保有車両が多かったことなどから影響は大きかった。金属供出で単線化された区間は1955年から順次複線に戻されたが、完全復旧は1973年までもつれこんだ。

東武特急が観光のシンボルに

戦後の東武特急復活の動きは進駐軍に始まる。連合国軍総司令部(GHQ)の高官が日光を気に入り、東武はGHQの要求に応える形で1948年から連合国軍専用列車を運行した。

戦災により車両不足に陥っていたため客車は国鉄から調達し、デハ10形を連結して運行した。また、GHQからは英語を話せる客室乗務員を乗務させることを義務付けられた。連合軍専用列車は不経済だったため、すぐに一部車両への日本人乗車も許されたが、翌年末まで連合国軍が意のままにダイヤを組める列車の運行は続けられた。

戦争の傷跡が癒えた高度経済成長期、東武は国鉄と日光を巡って熾烈な観光客争奪戦を演じた。東武は豪華な特急列車を次々に登場させ、常に国鉄をリードした。特に1960年に登場したデラックスロマンスカー(DRC)と呼ばれる1720系は東武の優位をゆるぎないものとし、後継として1991年に登場した100系スペーシアもスタイリッシュな車体でたちまち東武の顔となった。

1999年には日光の社寺群が世界遺産に登録され、2006年には東武とJRが相互乗り入れを開始。こうした流れを受け、100系スペーシアは東武だけでなく日光観光のシンボルにもなっている。

しかし、コロナ禍によって日光から観光客の姿は消えた。東武によるSLの定期運行や夜行列車運転は、日光の苦境を打開するとの期待を背負っている。

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