無数の線 織りなす奇岩…昇仙峡(山梨県甲府市、甲斐市)

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甲府からこゝへ来た 昇仙峡は 流石(さすが) にいゝ――――芥川龍之介「日誌」(1908年)

昇仙峡の岩肌に浮かぶ幾何学的な模様。美術家のマルセル・デュシャンが描いた前衛的な絵画「階段を降りる裸体No.2」になぞらえる人もいる
昇仙峡の岩肌に浮かぶ幾何学的な模様。美術家のマルセル・デュシャンが描いた前衛的な絵画「階段を降りる裸体No.2」になぞらえる人もいる

 「甲府からこゝへ来た 昇仙峡は流石にいゝ」。東京の旧制中学4年だった16歳の芥川龍之介は、夏休みの旅行で目にした昇仙峡の渓谷美を「日誌」に書き残している。

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 甲府駅から乗ったバスを昇仙峡口で降り、 長潭ながとろ 橋から荒川上流へ歩いた。芥川が「水の青いのと石の大きいの」と描写した清流と、山肌や川床に連なる巨大な岩々の景観が眼前に現れた。日誌は「この青い水に紫の藤が長い花をたらしたなら さだめて美しい事と思ふ」と想像している。訪れた4月下旬、渓谷には芥川が目にすることのなかった藤の花が咲いていた。

 遊歩道は途中から落石で通行止めになっていた。再びバスに乗り、昇仙峡の絵地図を広げる。やまなし観光推進機構の仲田道弘さん(62)から教えられた、「ひときわ高くそびえる (かく)(えん)(ぽう) の対岸、 (てん)() 岩の右横」に目を凝らした。

 雨にぬれた黄土色の岩肌に、曲線や直線が複雑に並んでいる。仲田さんによれば、「美術家マルセル・デュシャンの代表作『階段を降りる裸体No.2』を思わせる場所」。約30年前から山梨県庁内で静かに話題を呼んでいるという。観光地図に載っていない奇岩が確認できて、ちょっと得をした気分になった。

 今度は上流から遊歩道を下る。高さ約30メートルの 仙娥滝せんがたき にしばし見とれ、振り向くと こけ むした「名勝  御嶽みたけ 昇仙峡」の石碑があった。国の名勝指定は1923年3月で、来年には100年の節目を迎える。

 この一帯には、北方の 金峰山きんぷさん金桜かなざくら 神社への参詣者や地元の人々が通る険しい尾根沿いの御嶽道があったという。江戸後期、地元の農民・ (おさ)()えん右衛もん を中心にノミとツチで渓谷沿いの「御嶽新道」を切り開いた。景色の美しさが評判になり、「昇仙峡」と呼ばれるのは明治時代からだ。

 「仙なる地に昇る峡谷というのが、名前の由来のようです」と、現地で会ったボランティアガイド「昇仙峡マイスター」の雨宮洋一さん(79)が教えてくれた。

 金峰山、金桜神社、御嶽道などを含めた「御嶽昇仙峡」は2020年、日本遺産に登録された。「今後は古くからの参詣道に足を踏み入れる人も増えるのではないでしょうか」。そこにはまた別の昇仙峡が待っているのだろう。

  芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)
 小説家。1892~1927年。東京に生まれ、東京府立第三中、一高を経て東京帝国大学卒。作品に「鼻」「羅生門」「蜘蛛(くも)の糸」など。根っからの旅好きで、府立三中の時から級友らとしばしば旅に出かけた。4年の夏休みに旅をした記録が書かれた「日誌」は山梨県立文学館が所蔵する。同館では芥川の生誕130年を記念する「旅の記憶」展を6月19日まで開催中。「日誌」などの所蔵資料を中心に、北海道から九州、さらに上海など中国各地に及ぶ足跡を紹介。その見聞が芥川の生活や作品に与えた影響に思いをはせることができる。

 文・藤原善晴
 写真・中村光一

富士仰ぎ 広重の旅路思う

ロープウェーで尾根に上がると富士山が見える。右手前の山腹に見える岩は、馬の鞍(くら)に形が似ていることから「鞍掛岩」と呼ばれている
ロープウェーで尾根に上がると富士山が見える。右手前の山腹に見える岩は、馬の鞍(くら)に形が似ていることから「鞍掛岩」と呼ばれている

 風光 明媚めいび な昇仙峡には古来、多くの作家や画家が訪れた。昇仙峡遊歩道から見て、西側に連なる山々の尾根伝いにあるのが 御嶽みたけ 道。江戸時代後期の1841年、そこを浮世絵師の歌川広重が歩き、 金桜かなざくら 神社など数枚のスケッチを描いている。

葉を伝って落ちる雨粒に、昇仙峡の仙娥滝が写り込む
葉を伝って落ちる雨粒に、昇仙峡の仙娥滝が写り込む

 山梨県甲斐市で長く観光関係の仕事に携わった内藤博文さん(64)から「広重が歩いたあたりを見渡すには、昇仙峡ロープウェイで尾根に上がるのが一番。運が良ければ富士山も見える」と聞き、麓の乗り場に行った。

 窓口の係員に、尾根にあるライブカメラの映像をスマートフォンの画面で見せてもらった。富士山の中腹は見えるが、上から雲がかぶさっている。しかし尾根に着いて展望台に向かうと、雲がみるみる離れていき、富士山の美しいシルエットが姿を現した。

 広重はこの付近に来る間、富士山らしき山を描いているという。彼の旅路の一場面を追体験した気がした。別のスケッチに描かれている 鞍掛岩くらかけいわ も確認することができた。

 「富士山のパワーを浴びることができましたね」。昇仙峡ロープウェイの鈴木康彦社長(78)から声をかけられた。まったく幸運な旅である。

 甲府市内の湯村温泉にある湯谷神社、厄 けで知られる塩澤寺地蔵堂も日本遺産「御嶽昇仙峡」の構成文化財となっている。ここの温泉宿に宿泊し、昇仙峡へ旅する文化人も多いという。

昇仙峡を登り詰めると、金桜神社の社殿が現れる
昇仙峡を登り詰めると、金桜神社の社殿が現れる
藤の花は昇仙峡の春の見どころの一つ
藤の花は昇仙峡の春の見どころの一つ

 皇族の宿として知られる常磐ホテルの笹本健次社長(72)は、「当館に滞在しながら、昇仙峡を舞台に使った小説を執筆した作家もいました」と語る。緑豊かなホテルの庭にある樹齢約100年のケヤキの下に、ワインの一升瓶を持ち込んで宴会を開いた作家もいたと伝わる。

 渓谷を歩いたり、ホテルの庭で談笑したり――。旅の見聞を創作の糧とした姿を想像した。

●ルート 東京・JR新宿駅から甲府駅まで中央線特急で約1時間30分。バスで昇仙峡口まで約30分、仙娥滝近くの昇仙峡滝上まで約50分。

●問い合わせ 甲府市観光案内所=(電)055・226・6978 山梨県立文学館=(電)055・235・8080 昇仙峡観光協会=(電)055・287・2555

[味]熟成「甲州牛」香ばしく

 山梨県の豊かな自然の中で育てられた黒毛和種肥育牛の肉のうち、品質ランク上位の5、4等級のみが「甲州牛」として流通している。

 昨年11月、湯村温泉・常磐ホテル敷地内の古民家に、甲州牛と県産ワインを楽しむステーキハウス「ペントハウス甲州」((電)055・254・5555=予約専用)がオープンした。

 熟成させた甲州牛は、東京・銀座にある本店譲りの調理法によって表面がこんがりと焼かれている=写真=。香ばしく、かむたびにうま味があふれる。甲州牛を使ったガーリックライスも味わい深い。ワインセラーにはステーキによく合う銘品が県内のワイナリーから集められている。

ひとこと…次回は電気バスで

 芥川龍之介は昇仙峡を訪れてから2年後、甲府を再訪。その旅に関する書簡には「甲州 ()(どう) の食ひあきを致し候」とある。よほど美味だったのだろう。

 湯村温泉郷と昇仙峡を結ぶパークアンドライド方式の電気バスが、早ければ来年にも運行すると聞いた。その頃に甲府や昇仙峡を再訪したいと思う。

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