【コラム/旅へ。】不安も恐怖も「笑い」に変える浅草芸人たち

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東洋館前で、コント山口君と竹田君。「いろもの」とは落語以外の漫才やコント、紙切りなど。劇場はソーシャルディスタンス、フェースマスクなどの対策が施されている
東洋館前で、コント山口君と竹田君。「いろもの」とは落語以外の漫才やコント、紙切りなど。劇場はソーシャルディスタンス、フェースマスクなどの対策が施されている

 「寅さん」にはまっている。哀調を帯びた主題歌が流れ、懐かしい光景が浮かび上がると胸が熱くなる。動画配信サービスの「男はつらいよ」が巣ごもりの日々を慰めてくれたのである。

 1995年12月公開のシリーズ第48作「寅次郎(くれない)の花」が国民的俳優・渥美清の遺作となり、山田洋次監督は「正月映画を(にぎ)やかに作るという楽しみを打ち切るのがつらくて、もう1作だけ、もう1作だけ、という思いだった。後悔しています」と弔辞を読んだ。がんと闘いながら、渥美は寅さんであり続けた。それは芸人の意地だったのかもしれない。

 浅草六区の東洋館は都内唯一のいろもの寄席だ。前身は、永井荷風が名付け親のフランス座。戦後間もない頃、芸人たちはストリップの幕間(まくあい)で客を笑わせてきた。伴淳三郎、由利徹、関敬六、東八郎……。劇場からは多くのコメディアンが巣立っていった。彼らにとって、舞台は真剣勝負。最後はアドリブが勝負を決めた。

 渥美はどんなヤジでも自在に切り返した。弁当を広げた客に「貧しいもん、食ってるねぇ」と突っ込む。台本無視の芝居もしょっちゅうだ。街に出ても、飲み屋の親父(おやじ)を笑わせ、帰り際、「飲み代、ただな」とひと言。芸人・渥美清は寅さんそのものだった。

 浅草の灯はそんな芸人たちが守ってきた。萩本欽一はテレビ局で台本を渡され、「シナリオがなければ何もできない未熟者と見られている」と思ったという。エレベーターボーイだった北野武は、伝説の芸人・深見千三郎(せんざぶろう)に仕込まれた。タブー無視の毒舌漫才に、欽ちゃんは「師匠そっくり」とうなった。この夏、東洋館に寄った時、「コント山口君と竹田君」の山口君(本名・山口弘和)とお茶を飲んだ。舞台は3か月ぶり。相方とはリモートでネタ合わせをしたという。「芸人は・アスリートと同じ。試合がないと勘が戻らない」と話すが、切れのいいコントは昔のままだ。

 彼らはたくましい。不安や恐怖も笑いに変えてしまうのだから。浅草は芸人の街だ。これまで何度も復活を果たしてきた。コロナなんぞに負けるわけがない。

 文・三沢明彦

 (月刊「旅行読売」2020年11月号から)

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