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【コラム/旅へ。】時代の荒波に向かった高田屋嘉兵衛

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 江戸時代、一番偉かったのは誰か。子どものような問いにも、歴史作家の司馬遼太郎は丁寧に答え、英知と良心と勇気を尺度とするなら、と前置きしながら、高田屋嘉兵衛の名を挙げた。「それも二番目が思いつかないくらいに」と付け加えたというから、いささかの迷いもなかったに違いない。

高田屋嘉兵衛の像。函館開港100年を記念し、1958年に建てられた
高田屋嘉兵衛の像。函館開港100年を記念し、1958年に建てられた

 嘉兵衛は淡路島出身。北前船で財を成し、(ひな)びた漁村だった函館の発展に尽くした。19世紀初め、幕府は国後(くなしり)島でロシア軍艦を拿捕(だほ)し、艦長のゴローニンを捕縛した。ロシア軍も嘉兵衛の船を拿捕したが、彼は抑留中に世話役の少年から言葉を学んで幕府とロシアの間に立って交渉した。ロシア高官とは友情に似たものが芽生え、2年3か月後に艦長が釈放された時には、「ウラー(万歳)、タイショウ(大将)」の声が()き起こったという。国際感覚と先見性を備えた民間人が歴史の表舞台に突如として現れ、外交という平和的手段で戦争の危機を救ったことに、司馬は深く感じ入ったのであろう。

 日本海側の港を巡り、蝦夷(えぞ)地を目指した北前船は江戸期の経済を活性化した。一(かく)千金を夢見た開拓者が、リスクを背負って大海原に乗り出したのである。「皆人ぞ」は嘉兵衛の言葉という。臆せず、偉ぶらず。人はわかり合えるという信念は、交渉相手からは信頼されたが、鎖国と士農工商の世で、自由の風に対する反発はすさまじかった。例えば、加賀の豪商・銭屋五兵衛は干拓事業に心血を注いだが、無実の罪に問われて獄死している。函館の高田屋も、嘉兵衛没後に密貿易などの嫌疑をかけられ財産を没収されたという。

 拿捕事件から半世紀、ゴローニンの著書『日本幽囚記』で嘉兵衛を知った24歳の若者が、幕末の函館の港に降り立った。ロシア正教の宣教師ニコライ。明治になって、日露戦争が勃発した時、彼もまた日本にとどまり、両国の懸け橋になろうとした。

 函館山の麓、緑の屋根がそびえる函館ハリストス正教会の近くで、嘉兵衛の像が港を見渡していた。「偉さ」に順位などあろうはずもないが、英知と勇気に加えて、自らの良心を羅針盤に時代の荒波に立ち向かった人は、多くない。

 文・三沢明彦

 (月刊「旅行読売」2021年6月号から)

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2005988 0 旅行読売セレクト 2021/05/06 05:20:00 2021/05/06 05:20:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/04/20210423-OYT8I50010-T.jpg?type=thumbnail

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