[観る将が行く]指宿対局、砂むし温泉撮影OKに感じた羽生九段の「思うところ」
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湿り気を含む熱砂の重みを感じながら、静かに目を閉じる。ものの数分もすると、体が芯の方からぽかぽかしてきて、額にじっとり汗がにじみ出る。窓から降り注ぐオレンジ色の朝日も何とも言えず爽やかだ。
ふ~、気持ちいい!! 不摂生で体にたまった毒素が少しずつ流れ出ていくような感じがして、まさに最高のデトックスだ。
竜王戦七番勝負第4局(11月26、27日)が行われた鹿児島県指宿市の名物「砂むし温泉」。対局が終わった翌日の朝、会場の指宿白水館で体験させてもらった。
出張のご褒美――だけではない(そもそも入浴料金は自腹だし……)。少しだけ思いをはせたかったのだ。
対局前日、羽生善治九段は、どんな気持ちで砂むし温泉に入っていたのだろう。
豊島将之竜王がタイトル初防衛に王手をかけるか。それとも羽生九段が対戦成績をタイに戻すか。
七番勝負の天王山とも言える第4局を翌日に控えた25日夜、関係者夕食会の取材を終えた報道陣は色めき立っていた。
「羽生九段が9時25分から砂むし温泉に入ります。砂をかけるところまで撮影の許可をもらいました」
えっ、ほんと?というのが正直な感想。全国を巡る七番勝負では、開催地の名物料理を食べたり、観光地を訪れたりと、対局者が地域おこしに一役買うことは珍しくないが、この日は東京から鹿児島への長距離移動もあったし、明日は大事な対局を控えている。何より体調不良で福島市の吉川屋で行われる予定だった第4局が延期になった経緯もある。

だが、羽生九段は宣言した時間通りに、館内の砂むし温泉に浴衣姿で現れた。
七番勝負に密着する読売新聞のカメラマンWくんが撮影した写真はこんな感じ。自他ともに認める(?)砂むし温泉愛好家・佐々木勇気七段に負けず劣らずリラックスしている様子が印象的だ。
自分でも写真を撮りつつ、羽生九段と一緒に砂をかぶる荒業に出た将棋担当のY記者によると、羽生九段は10分を経過したぐらいで「熱いです。もう出ます」と、何度かつぶやきながら、最終的には15分も砂むし温泉を堪能。「手足の先っぽまで温まりました」と、さわやかな笑顔で話したそうだ。
かくして、この模様はSNS上でファンの間で大反響となったのだが、翌朝、朝食の会場で一緒になった立会人の藤井猛九段と読売新聞のベテラン記者・T編集委員はくしくも全く同じことを言った。
「羽生さんが、ああいうシーンを撮らせるのって本当に珍しいことなんだよ。思うところがあったんじゃないかな」
実は、指宿対局に帯同した記者にも、ひそかに羽生九段の「思うところ」を感じたシーンがあった。
対局前日の対局室検分を終えた後の報道各社によるインタビュー。普段はどんな質問にもひょうひょうと答える羽生九段だが、延期になった福島対局に言及した時だけは、少しだけ早口になり、言葉が熱を帯びたように感じたのだ。
「これまでタイトル戦をやってきて初めて延期という形になってしまって、申し訳なかったと思っています。関係者のみなさまには、日にちのないところで迅速に対応していただき、ありがたかったです。福島のみなさまには、いつの日か何らかの形でお返しすることができたらと思っています」
ここまで書いてきて、こういうことを言うのも何だが、結局のところ、羽生九段がどんな思いで貴重なオフショットを撮影させてくれたのか、その胸中は当のご本人にしか分からない。
ただ、対局前に砂むし温泉でリラックスする姿に、将棋ファンそれぞれがそれぞれの解釈で羽生九段からのメッセージを受け取ったことだけは確かだ。

「羽生九段いい笑顔」「元気そうでよかった」「楽しそう。指宿行ってみたい」「佐々木勇気七段に(砂むし温泉の)ベテランみたいな風格を感じる」――。SNS上に寄せられたコメントの先は、将棋を愛する人たちの笑顔が広がっていたのだから。
指宿白水館の玄関には、情熱の歌人・与謝野晶子が指宿を訪れた際に詠んだ歌が掲示されている。
〈しら波の 下に熱砂の隠さるる 不思議に逢へり
対局者、ファン、そして熱戦を支える関係者。晶子の言葉通り、指宿の地で、それぞれがうちに秘めた熱い思いが交錯し、ドラマが生まれた。(藤)