【俺はググらない】赤ちゃんのときに泣きすぎて涙が枯れたのかも…穂村弘さん

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 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

 涙についての文学作品を探していると、この短歌がまっさきにアタマに浮かびました。短歌というのは、本当にあったことを書くわけでもないので、実際に穂村さんが冷蔵庫を開けてその卵置き場に涙を落としたのかは分かりません。でもきっと、こんな面白い涙の歌を詠む人なら、涙は本当に枯れるのか、という疑問のヒントをくれるかもしれない。そんな期待を抱いて、穂村さんに会いに行ってみると……

私は泣いたことがない

 全然覚えていないんですけど、赤ん坊の頃はすごく泣いていたらしいんです。あまりに泣き止まないので、うちから線路まで毎日、電車を見に連れて行って泣きやませていたと、母は言っていました。しかし物心ついた3~4歳くらいの頃から涙が頬を流れたという記憶がないんです。うるっと来たことくらいはありますが。母が死んだ時にも泣きませんでした。私の場合は、それこそ赤ちゃんのときに泣きすぎて涙が枯れたのかもしれないです。

 でも別に泣かないからと言って不便を感じたこともありませんでした。中学生の時、同級生にちょっとしたショックですぐに気を失ってしまう女の子がいました。この場合は、もしも駅のホームとかで気を失うと危ないわけですね。でも涙が出ないくらい、危ないということもないですし、卒業式や葬式でも泣く人も泣かない人もいるわけですから、特異な目で見られることもありません。

 ただ、昔の本を読むと男もよく泣いていますね。源氏物語でも主人公の光源氏はしばしば泣いています。近代くらいまでは与謝野鉄幹の歌などを見ても感情表現が今より大きかったように感じます。そう考えると、個人のレベルではなく、現代人全体で涙が枯れてきているという仮説も成り立つかもしれませんね。

 ああ、でも、五十年くらい前の漫画、例えば「巨人の星」の星飛雄馬も親友の伴宙太も父親の星一徹も、みんなよく泣いていますね。でも、ごまかすために目薬をさすシーンなんかがあって。その頃は、なんていうか、「男は泣くな」というモードがかなりはっきり生きていたような気がします。逆に「男は歯を見せて笑うな」とも言われましたね。こらえる美学があった。

 それが変わったのはバブル期かもしれません。感情表現に対して冷笑的な風潮がありました。泣いている人を見ると共感するのではなく、あざ笑う。「感情表現をしない方が有利」「すぐ笑う人はお笑いのセンスがない、感度が低い」「ジャッジする側がえらい」。そういう風潮は今も残っていますが、80年代の方が感性として行使されていたような気がします。別に私は泣きませんが、そういう風潮にはすごくイヤな感じを覚えていました。

「人間のポテンシャルに対する信頼」に涙

 目頭がうるっと来るのは、創作物やスポーツなどに触れたときの方が多いかもしれません。最近感動したのは、「スラムダンク」を再読したときです。激しくたたかっている試合の途中で、赤木が急に涙を流すんです。そのこと自体に自分で驚いているシーンがあった。よく、感情は「喜怒哀楽」という言葉で表されますが、こうしたラベリングにあてはまらない、何の涙なのか全く言語化できないのに作品化できている、ということに驚き、目頭が熱くなります。

 ほかにもスラムダンクにこんなシーンがありました。残り数秒を切った時点で主人公の桜木花道がシュートを決めて、相手を4ポイントリードした場面。シュートを決めた直後に、桜木が「戻れ、センドーが狙ってくるぞ!」と叫ぶんです。仙道というのは相手チームのエースなんですが、むしろそう言われた仙道の方があっけにとられた顔をしているんですね。桜木には、敵である仙道の能力、ひいては人間のポテンシャルに対する、(変な言い方ですが)「信頼」があるんですね。残り数秒で4ポイント差がついていれば、普通はひっくり返されることはないわけです。でも、彼は安心しない。誰よりもセンドーの力を信じてるから。既知の領域の範囲では起こらない奇跡が起こりうるのだという確信を持っている、そこには「愛」のようなものがあるわけです。

 たとえば同じような感じで目頭が熱くなったのは、サッカーで国際試合を見ていたとき。ドイツのキーパーが試合中に乱入してきた観客のおじさんを優しくピッチの外に送り出したんです。その間も目は一瞬たりとも遠くのボールから離さないんです。

 人間には無限のポテンシャルがありうるのだ、と感じさせる瞬間に極度に感動してしまうんです。そういう瞬間は、私たちが既知の領域の中で過ごしている日常空間にはめったに表れません。

 人間は偶然性に左右されながら生きていますよね。年齢や健康状態と無関係に偶然明日死ぬかもしれない、そんな生を生きているわけです。偶然性に翻弄される人間が示すことができるのは、何をなすかという成果ではなく、結局「態度」だけではないかと思うんです。人間のポテンシャルに対して無限の信頼を寄せる「態度」こそが、本当に人間の心を揺さぶるのではないかと思います。

かなしいとき

 涙というと、悲しいときに泣くという感覚が一般的ですが、個人的にはどのような要件につしても、悲しくて泣くという感覚はありません。泣くというのもある程度訓練によって身につくものではないでしょうか。つまり、学習によって身につける感情表現のような気がします。私のように兄弟のいない一人っ子で、親子関係に特段問題がなく、親戚も遠くにいるという距離感で人と接してくると、積極的に自分の取り分を主張するようなコミュニケーションの取り方を学習しなかったという自覚はあります。自分が怒ったり泣いたりしたときはたぶんもうキレてるときでしょうね。通常のコミュニケーションの範囲内でほどよく泣くことが自分にはできません。

 自分が悲しいときどんなふうに反応してきたかを振り返ると、30歳代でずっとつきあっていた恋人と別れたとき、大変悲しい思いをしました。悲しいというか、こわい、という気持ちもありましたね。行くお店、帰る道、あらゆる行動パターンがシェアされている相手だったので、それが急にいなくなって一人で体験しなければならなくなったときに自分が耐えられるのかという怖さがあった。その苦痛を少しでも和らげようと、夜に30分ほど外を歩き回ったことがあります。

 そのときに思ったのは、「1年ガマンしないといけない」ということでした。彼女のいない初めての季節がひとめぐりすれば、「2年目は去年耐えられたのだから大丈夫」となるだろうと考えていたのだと思います。特に根拠はないのですが。泣くことはなかったですが、季節がひとめぐりした状態が、自分にとっては「涙が枯れた」状態になると直感していたのかもしれません。

 「涙は本当に枯れるの?」ほかの回答はこちらから

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1392682 0 お知らせ 2020/08/06 15:38:00 2020/08/12 17:25:28 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/08/20200806-OYT8I50024-T.jpg?type=thumbnail

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