【俺はググらない】番外編:「涙が枯れる」っていつ頃から言うの?

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 涙は本当に枯れるのか?その問い自体、追求する価値のあるものですが、それを調べていく過程でもう一つの問いにぶちあたりました。「涙が枯れる」という比喩表現は、いったいいつから使われるようになったのでしょうか…?

 その疑問を抱いたのは、国文学者の今関敏子さんに取材をしているときでした。今関さんによると、王朝文学では「涙が枯れる」という表現は出てこないと言います。

 確かに、今関さんが編者となってまとめた「涙の文化学」(2009年、青簡舎)所収の「源氏物語の涙」(岩佐美代子)では、源氏物語に登場する涙の表現がその頻度とともに調べ上げられていますが、その中に「涙が枯れる」という言い回しはありません。それどころか、「涙川」や涙の「いとまなし」という表現に見られるように、涙がとめどなく流れ出ることを誇張した表現の方が主に使われています。「泣きすぎて涙が出なくなる、という発想自体が平安時代にはなかったのではないか」と今関さんは話しています。

 では、「涙が枯れる」という表現はもっと後から使われるようになったのでしょうか?

 国立国語研究所に聞いたところ、はっきりした回答を得ることはできませんでしたが、むしろ逆に時代をさかのぼって「古事記」で似た言い回しがあることを教えていただきました。

 その泣く(さま)は、青山は枯山(からやま)()す泣き枯らし、河海は(ことごと)に泣き()しき。

 これは、神話に出て来る神・スサノオが任せられた国を統治せず、はげしく泣きわめく様子を描写したものです。「古事記(上)全訳注」(講談社学術文庫)では、「そのはげしく泣く有様は、青々とした山が、枯木の山のようになるまで泣き枯らし、川や海の水は、すっかり泣き乾してしまうほどであった。」と訳しています。

 「古事記の世界」(西郷信綱著、岩波新書)では、スサノオは「根の国(=死後の国)にはらいやらるべき罪そのものの化身であった」と解釈し、「『青山を枯山なす、云々』は、たんに文学的な比喩である以上に、スサノヲのもたらす怖るべき不毛と干魃への暗示をふくんだ表現と見るべきではあるまいか」と指摘しています。

 なるほど、確かに「泣く」と「枯れる」を併置した表現は大変古い時代から伝えられたものかもしれません。しかしスサノオの泣きっぷりを、「青々とした山を枯らしてしまうほどであった」とする表現は、我々が現代使っている「涙が枯れる」という表現とはベクトルが違うようです。この表現の初出と見るのは難しいかもしれません。

 では、この「涙が枯れる」という表現、西洋文学由来か…?いやいや、中国文学から入ってきた言い回しなのか…?いろいろ考えて調べてみましたが、なかなかこの表現の初出と思えるものに行き当たりません。

 悲しみこらえて微笑むよりも
 涙かれるまで泣くほうがいい

 海援隊の「贈る言葉」の歌詞にも、「涙がかれる」という表現は出てきます。違和感なく歌の中に溶け込んでいる様子からすると、この歌がリリースされた1979年頃には、この言い回しはすでに人口に膾炙していたようにも感じます。あまりにこの表現の初出が見つからないため、こっちが涙かれるまで泣きたい気分になってきました。

 実はどこかの時点で歌謡曲に見られるようになった表現で、時代をさかのぼることは難しいのではないだろうか…?そう思い始めた矢先、こんな表現にたどり着きました。

 彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が真率なる心や色に(あら)はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷くはあらじ。又た我母の如く。」暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬を流れ落つ。

 「暫し涸れたる涙の泉」!まさに探していた「涙が枯れる」にかなり近い形での表現です。これは日本から遠く離れたはるかベルリンの地で、太田豊太郎がエリスに初めて出会ったシーン。…そう、明治時代の文豪・森鴎外の「舞姫」の一節です。

 ひどい家庭環境と貧乏にうちひしがれ泣いていたエリスに、通りかかった豊太郎が「なぜ泣いているんですか。しがらみのない外国人である私の方がかえってあなたを手助けできるかもしれない」と声をかけます。エリスは驚いて涙がひっこんだようです。豊太郎の顔を見て、「あなたは良い人だ」と言い、また涙があふれてくる…そんなシーンです。

 この一節では、エリスの涙がいったん引っ込んだ部分について「暫し涸れたる涙の泉」と表現しています。「涙が枯れるほど泣く」という言い回しで伝わってくる「泣きすぎてもう涙が出ない」というニュアンスとは相違がありますが、少なくとも「涙が出ない」ことを「涙の泉が涸れた」と表現している点について言えば、かなり近いと言えるのではないでしょうか。

 さて、ではこの「涙の泉がしばらく涸れた」という表現自体は、森鴎外のオリジナルなのでしょうか?あるいはドイツ文学などの西洋文学から借りている表現でしょうか?そこのところまではさすがに調べきれませんでした…。一介の新聞記者の調査ですから、これ以上はなかなか難しい…。

 しかし、ここまで調べてひとつ思い出したことがあります。

 「涙は枯れるのでしょうか」と取材した歌人の穂村弘さんにも、記者は「この表現がいつ頃からあるのだろう」というギモンを投げかけていました。穂村さんもその答えを持ってはいませんでしたが、そのときこんなことを言っていたのです。「涙が枯れる、というのはそもそも言い回しとしては少しおかしいですよね。『涙の泉』が枯れるというのであれば分かりますが。おそらくそういう、涙を泉にたとえる表現が最初にあって、そこから『涸れる』という表現が導き出されているのでは」。

 穂村さん、ビンゴです(たぶん)。今回の取材ではいつ頃から「涙が枯れる」あるいは「涙の泉が涸れる」という表現が使われるようになったのか、までは突き止めることできませんでした。ただひとつ分かったことは、言葉の専門家である歌人の言語感覚は鋭い、ということです。めでたし、めでたし。

 「涙は本当に枯れるの?」ほかの回答はこちらから

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