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俳人としてこれまで3冊の句集を出版し、活躍を続ける神野さん。「俳句甲子園」という全国の俳句好きな高校生が集まるイベントがきっかけで、俳句を始めました。当時、松山に住む高校1年生。およそ20年前のことです。
10代の頃に始まり、NHKの俳句番組にレギュラー出演をしながら東京の大学に通って、結婚・出産を経て現在は大学の講師を務める神野さんのおよそ20年間にわたる句歴は、まさに子どもから大人に変わる人生の節目を俳句とともに歩んできたと言えます。中高年になって俳句を始める人も多い中、自身の表現分野を多感な思春期に見定め、そのフィールドを掘り進めながら大人になってきた彼女は、大人と子どもについてどのようにとらえているのでしょうか。
その回答は、表現行為と「大人」「子ども」への洞察に支えられているものでした。

大人と子どもって、「ある時までは子ども」「ここから大人」というように、すぱっと分けられないのではないのでしょうか。子どもの部分と大人の部分は、個人の中でグラデーションをなして共存しているように感じます。
俳句をつくるには、自分の中の子どもの部分が必要です。道ばたに咲いているたんぽぽを見つけたとき、「たんぽぽ!」と近づいてしゃがむのは子ども。サラリーマンや大人はみんな通り過ぎますよね。俳人は生活に一見必要がないものを見て聞いて感じるからこそ俳句を作ることができます。だから俳人もしゃがみます。
いや、俳人にも生活があるのでそんな毎回毎回たんぽぽを見つけたらしゃがみこむというわけではありませんが、そういう子どもの部分が自分の中からなくなってしまうと、世界との感覚的なつながりが絶たれてしまうという感覚は持っています。大人は知識で世界とつながっていますが、子どもはたとえば「手を振ったら綿虫が手にくっついた」というような「感覚」で、世界とつながっている。そういう「世界となだらかにつながっている感覚」を日常の中で保持できているからこそ、どこにいても私は世界とつながっていられて、漂泊しないで済んでいるような気がします。
逆に自分の中の大人の部分は、人間社会との接点に表れると感じます。社会の中での役割が増え、持っている荷物が増えると、私自身が社会の方に引き寄せられていきます。「明日はこの仕事をやろう」「テーブルの上を片付けて、それから…」なんて考えていると自分の中にある「外の世界に開いている部分」が減っていきます。仕事が片付いてぼーっとしていい夜にベランダで月を見上げると子どもの部分が顔を出して「月!」と見とれる、そんなときに、世界とつながる部分が回復しています。
俳人はその辺りの「荷物のおろし方」がうまい人、なのではないでしょうか。手ぶらで自分の外の世界に向き合う力を持っている人。私自身は、荷物のおろし方をどこで身につけたのでしょうね。松山の田舎で生まれ育ち、実家の蜜柑山を駆け回ったり風の中を自転車で通学したりして、「人間以外にも多くの命がある」という感覚を常に五感で感じていたのが影響しているでしょうか。
むしろ「大人」というのがサングラスをかけた状態で、「子ども」の心で世界を見るときにはサングラスを外して本来の状態に戻っているのかもしれません。世界をそのまま直視してしまうとまぶしいから、いつもは大人としてのサングラスをかけているけど、「子ども」から「大人」への変化は、決して不可逆なものではないと感じています。
一方で、自分の中の「大人」の部分から俳句を生み出すこともあります。それは、自分以外の者に心を寄せる、という意味です。いま子育てをしているのですが、子どもを見ていると彼らは基本的に「自分が基準」です。「ほかの友だちとぶつかったけどわざとじゃないから謝らない」「トイレ掃除は汚くてしたくないからしない」。そうではなくて「ぶつかったら痛い思いをした人がいるよ」「トイレ掃除をしないと困る人がいるよ」ということに思いが至る、つまり「自分の快/不快以外に思いをいたすことができる」というのは社会の中で暮らす大人として大事な要素だと思います。
私の俳句では、そういう部分は「いまここにあるものだけでなく、いまここにないものに思いをいたす」という形で表れると感じています。俳句の題材としてくじらやツバメといった動物を取り上げることが多いのですが、「くじらは何を感じているのか」「ツバメも夜風を聞いているかな」などと、他者の見ているもの、感じているものに想像をめぐらせる句を作るときには、子どもの見方で世界と向き合う感覚だけでなく、他者を想像する大人の感覚がはたらいているように感じます。
息子を身ごもったとき、おなかの中に別の命がある、その鼓動がいつ止まるか分からないということを痛切に感じ「人間とは頼りない命だ」という思いを抱きました。人間だけでなく、全ての生命がそんなふうに思われて生まれてくるのだとしたら、命というのはなんていとおしい……。これは私の大人の部分の感覚で感じていることでしょう。
子どもを産む経験をしないと大人ではないということではありません。読者の小学生のみなさんもたとえば朝顔を育てるとか、何かペットを飼うことを経験するでしょう。朝顔やペットのことを考えないと、生き物はうまく育ちません。そんなふうに他者に心を寄せるとき、自分の中の大人の感覚をすでに養っているのだと思います。
「子どもの感覚」と「大人の感覚」。最後に、それぞれの感覚がはたらいている私の俳句を一句ずつ挙げます。まず子どもの感覚がはたらいているのは
母乳ってたんぽぽの色雲は春
です。生まれてきた息子がNICUで治療を受けていたとき、母乳を搾乳してそこまで持って行っていました。母親として大きな不安を抱えていた時期の俳句ですが、「サングラス」を外し自分の中の子どもの感覚で見てみると、明るくて黄色い母乳の色がたんぽぽに似ていると気づいて、その明るさに救われました。
逆に「大人の感覚」でできた俳句は
西瓜切る少年兵のいない国
成長した息子と一緒にスイカを切っていて、できた俳句です。日本は軍隊を持たず、少年兵もいない。目の前にいる息子が少年兵として戦いに出ることは今のところありませんが、世界に目を向ければそういう国ばかりではありません。息子のことばかりではない、息子を通して世界の子どもたちのことを思いました。できればどんな子どもも戦争に巻き込まれないでほしいものだという思いを込めて作った俳句です。
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