創立者嘉納治五郎にグローバル力を学べ…灘校

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 灘中学校高等学校(神戸市)は「精力善用」「自他共栄」を建学の精神としている。この校是を提唱したのは講道館柔道の創始者、嘉納治五郎だ。当時、教育者として名高かった嘉納は、地域の依頼を受けて同校の顧問を務め、実質的に同校を創立したという。教育家、IOC(国際オリンピック委員会)委員などさまざまな顔を持つ嘉納の人物像や灘校との関係を、嘉納の研究家でもある和田孫博校長に聞いた。

教育の理想を込めて灘校を創設する

――灘校が創立された由来について教えてください。

創立当時の趣を残す登録有形文化財指定の灘校本館
創立当時の趣を残す登録有形文化財指定の灘校本館

 本校が開校したのは1928年です。本校が位置する魚崎(うおざき)地域(神戸市東灘区)を含め、大阪市と神戸市に挟まれた「阪神間」と呼ばれる地域は、当時、大阪の財界人が好んで住まいを置いた場所でした。子弟の教育にも熱心で、受験が過熱していく中で、ナンバースクールと呼ばれる公立中学だけでは足りなくなっていました。そこで、良い私学をと望む声が地域の住民の間でも高まり、有力者たちが相談して地元出身の教育者として高名な嘉納治五郎に依頼したのがきっかけです。

――嘉納はどういうふうに創立に関わったのですか。

 学校創立の動きは1920年ころからあったと思われます。嘉納先生はこの年に東京高等師範学校の校長を依願退職していますが、日本人として初めて就任したIOC委員としての仕事に加え、1922年には貴族院議員に就任していて、極めて多忙な時期でした。

 それでも、自らの理想とする教育を実現するために学校を創設しようとし、千葉県に土地を取得していました。実際、校門から校舎予定地までの並木道が完成していたそうですが、やはり、多忙が原因で完成を断念せざるを得ませんでした。ちょうどそのとき、出身地の人たちから「力を貸してほしい」という相談を受けたので、二つ返事で引き受けたのです。学校の顧問として、自らの親戚筋にあたる「菊正宗」や「白鶴」という大手酒造家に資金提供の依頼をし、東京高等師範学校の教え子の中から気骨ありと見込んだ者を校長に推挙しました。

――その初代校長が眞田範衞(さなだのりえ)先生ですね。

 そうです。眞田校長先生は、校舎の建設から教員の招聘(しょうへい)まで精力的に取り組み、1927年10月に学校設立認可を得て、翌年の春、開校にこぎつけました。嘉納先生も多忙の中、何度も灘校に足を運んで眞田校長先生の相談に乗り、嘉納先生が提唱した「精力善用」「自他共栄」を建学の精神として掲げることになりました。これは現在に至るまで、本校の校是として教育の柱となっています。嘉納先生は、公式には顧問ですが、事実上の灘校の創立者です。

高等師範学校長として四半世紀以上教員を輩出

――校内に嘉納治五郎の立像と並んで「生誕ゆかりの地」と記した碑がありますね。嘉納は、この地で生まれ、どんな人生を歩んだのですか。

嘉納治五郎立像と和田孫博校長
嘉納治五郎立像と和田孫博校長

 嘉納先生は、現在の灘校に近い御影郷(みかげごう)で1860年に生まれました。菊正宗酒造を経営する本嘉納家(ほんかのうけ)の分家筋にあたり、父親は江戸に清酒を送る樽廻船(たるかいせん)生業(なりわい)としており、幕末には幕府の廻船方御用達(かいせんかたごようたし)を務め、明治維新後は新政府に仕えるために上京します。

 明治政府で貿易や海運を担当し、父親は外国語の重要さを認識していたのでしょう。息子の治五郎は12歳から英語とドイツ語を学びます。14歳で官立東京開成学校に入学し、政治学と今の経済学にあたる理財学を学びます。在学中に東京開成学校は東京医学校と合併して東京大学に改称されました。後の東京帝国大学、現在の東京大学です。卒業後は官僚になる学生が多かった中、親戚や知り合いの年下の者に教えることが好きだった治五郎は官僚になる道に進まず、道義学や審美学の専科、つまり哲学と美学を大学院で学びます。

 その後、教員となり、教育の道を歩み始めます。29歳のとき、ヨーロッパ教育視察の機会を得て、1年半外遊します。帰国して1893年に東京高等師範学校の校長に就任します。2度の中断はあるのですが、60歳を迎えようとする1920年まで、明治から大正にかけて四半世紀以上にわたって全国の中等学校の幹部教員を送り出し続けました。

欧米に媚びることなく国際協調主義を貫く

――IOC委員としての活躍はどんなものでしたか。

 1936年のIOC総会で、嘉納先生は最終プレゼンテーションを行い、1940年の第12回五輪東京大会と第5回冬季五輪札幌大会の開催権を勝ちとっています。「日本は開催地として遠い」という欧州の委員に対し、流暢(りゅうちょう)な英語で「1912年のストックホルム大会以来、日本はオリンピックへの出場を継続している。もし遠距離を理由に日本にオリンピックが来ないのであれば、日本からヨーロッパへの参加もまた遠距離であるから、出場する必要はないことになる」と堂々と発言したのです。この東京五輪は、後に日本政府が日中戦争の激化を理由に開催権を返上したため、幻の東京五輪と呼ばれています。

 嘉納先生はスポーツを通じ、国際協調を進めることに一生尽力するのですが、その姿勢は決して欧米に()びるものではなかったのです。1924年に施行されたアメリカの移民法によって日米関係が危うくなったとき、国内では英語教育の禁止を訴える人までいたのですが、嘉納先生は、「むしろこういう時期だからこそ両国民の理解を深めることが重要だ」と主張し、1927年に日本英語協会を設立し、初代の会長に就任しました。一貫して国際協調主義を取っていたことが分かります。

これからの若者にとってグローバル時代のロールモデルに

――嘉納治五郎の精神は、現在の灘校にどのように引き継がれていますか。

灘校の講堂で訓話を行う嘉納治五郎
灘校の講堂で訓話を行う嘉納治五郎
嘉納治五郎の書が掲げられている柔道場
嘉納治五郎の書が掲げられている柔道場

 柔道の極意から生まれた「精力善用」「自他共栄」は、今も変わらず本校の教育の柱です。「精力善用」は、精力の最善活用を意味し、自らの持てる力を最大限に発揮せよという教えです。「自他共栄」は嘉納先生が「相助相譲・自他共栄」と講演の中で語った通り、助け合い譲り合って自他共に幸せになろうという呼びかけです。

 人にはそれぞれ個性があり、持てる能力もさまざまです。ある人は自分の持てる能力を最大限に発揮し、また別の人も自分の持てる力を発揮する。そういうさまざまな人々の力が集まれば、協働して一つのことが成し遂げられ、参画した者みんなが幸せになれるということだと私は思うのです。校是について、生徒たちには入学式や中1の道徳の授業でこのように伝えています。

 生徒たちは、他の人の個性を尊重し、その結果、自分の個性も大事にされ、協力しながらのびのびと過ごしています。「精力善用」「自他共栄」の実践です。

 この教えは生徒や個人同士のことだけでなく、集団同士にもあてはまりますし、国同士でも同じでしょう。どの国もそれぞれ持てる力は異なるが、それぞれの国ができることを最大限に努力して行い、他国と協働して平和な世界を構築していくという国際協力にもつながると思うのです。

――嘉納治五郎はグローバルな考えを持った人だったのですね。

 嘉納先生の実績は、継承発展でなく、全くの無から有を生じさせることでした。グローバルな力とは、海外で活躍するという地理的な次元だけでなく、未知なる課題に直面した時にも、おじけづくことなく対処し、粘り強く解決する力と考えます。こうした強靭(きょうじん)なグローバル力の持ち主である点から、私は嘉納先生を、これからの若者たちにとってロールモデルとなる一人として推薦したいと思っています。

 (文・写真:水崎真智子 一部写真:灘中学校高等学校提供)

 灘中学校高等学校について、詳しく知りたい方はこちら

585534 0 灘中学校高等学校 2019/05/16 09:43:00 2019/05/16 09:43:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/05/20190514-OYT8I50046-T.jpg?type=thumbnail

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