ピエール・カルダンさん 惜しむ声…立体裁断に驚き/目的与えられた/98歳まで見事
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フランスを代表するファッションデザイナー、ピエール・カルダンさんが29日に亡くなった。98歳だった。世界的なブランドを築き上げた「モード界の革命児」は、日本との関わりが深いことでも知られる。突然の
カルダンさんは1958年に初来日した。生地を直接人体にあてる立体裁断の講習会を1か月各地で開き、日本のファッション界に大きな影響を与えた。
このときの講習会に参加したファッションデザイナーの森英恵さんは「講習会は、日本のファッション界を担う専門家たちがフランスの技術を間近にみつめて勉強する機会でした。私も、これはすごいと思いました」と振り返る。
「セーヌ川の見えるご自宅に招かれ、温かくもてなしていただいた時のことも思い出します。同じ時代を走ってきたデザイナーが、またひとり亡くなり寂しく思います」としのぶ。
ファッションデザイナーのコシノヒロコさんは、文化服装学院在学中、来日中のカルダンさんにデザイン画を褒めてもらったことがある。「世界で活躍するデザイナーになりたいと思うきっかけだった。将来の目的を与えてくれて本当に感謝している」という。
デザインやビジネス面で影響を受けたというファッションデザイナーのコシノジュンコさんは「斬新なカットや、女性をチャーミングに見せる服が大好きだった。98歳まで見事にやりきった。生命力あるデザインや生き方はこれからも残るでしょう」と話した。
[評伝]タブー打ち破る開拓者
「私はいつもパイオニアでありたい。タブーを打ち破っていく」。1993年、来日したピエール・カルダンさんを取材した際、こんな答えが返ってきた。
オートクチュール(高級注文服)全盛の59年、パリでプレタポルテ(既製服)を発表した。モード界からは痛烈な批判を浴びたが、「ファッションは特権的なものではない」と動じなかった。

ユニセックスや宇宙ルックなど未来的なデザインを提案し、ビニールなど新しい素材を使用。まだ白人が中心だったモデルの世界で、日本のファッションモデルである松本弘子さんを専属モデルとして起用した。モード界がプレタポルテへと変わっていく中で、重要な役割を果たした。
活動には「初めて」という言葉がついて回った。ブランド名を様々な企業に貸す「ライセンスビジネス」の先駆者であり、自動車や家具など800もの製品で世界中に自らのブランドを広げた。日本でもバスマットや鍋などの生活関連用品で「ピエール・カルダン」の名前を見る機会は多く、誰もが知る外国人デザイナーとなった。
また、劇場を買い取って、若手芸術家に発表の場を提供したり、パリの有名レストラン「マキシム・ド・パリ」を買収したりした。中国やソ連でもいち早くファッションショーを開催するなど、幅広い活動で「カルダン帝国」を作り上げていった。
長身でいつも背広姿。デザイナーというより実業家に見えた。会うと、常に熱弁をふるう。2010年に早稲田大で講演した際には、風邪を引いて熱があったという。しかし、壇上で自らの仕事について熱く語り、舞台の袖で私の取材にも丁寧に答えてくれた。
今年、ドキュメンタリー映画が公開された。そこには、意欲的に働く「生涯現役」の姿があった。(編集委員 宮智泉)