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旅の列車で味わう駅弁は格別だ。一口食べては車窓を眺め、次のおかずを選んでは口に運び……。そんな当然の所作も、静岡県三島市の上杉剛嗣さん(61)に言わせればもったいないらしい。「駅弁を包んでいた『掛け紙』を見忘れていませんか。描かれた風景を見て、なぜここを選んだのか考えたり、どんな所か想像したり。掛け紙は心で味わう駅弁です」(紙WAZA編集長 木田滋夫)
売り切れだったら手紙で送付依頼
高校の常勤講師の上杉さんは、掛け紙を集めて半世紀近くになる。コレクションは1万枚を超え、自らのホームページ「駅弁の小窓」で一部を公開している。

きっかけは中学1年のときの旅行だ。「青森駅で買った駅弁を寝台列車で食べました。掛け紙にねぶたが描かれていて、眺めているうちに『本物を見たいな』と旅情が湧いてきたんです。帰ってアルバムに貼り、何度も見返しました」
百貨店の駅弁まつりに足を運ぶようになり、高校1年のときには掛け紙を集めに九州を旅した。ところが、西鹿児島駅と肥前山口駅では楽しみにしていた駅弁が売り切れていた。「千載一遇のチャンスを逃し、もう悔しくて。駅弁屋さんに手紙を書いて掛け紙を送ってもらいました」。大学は静岡を離れて関西へ。「西日本の掛け紙を集めてやろう、と思いましてね」
歴史という「タテ軸」発見
その頃、旅行雑誌に掛け紙を集めていることを投稿した。すると、年配の読者から「日華事変1年」と記された古い掛け紙が送られてきた。「それまで全国の掛け紙を集めるという平面的な発想でしたが、歴史というタテ軸があることに気づかされたのです」

古書店を巡り、明治~昭和の掛け紙や、日本が統治していた頃の台湾や朝鮮の掛け紙を買い集め始めた。収集が進むにつれ、意外な発見をする。掛け紙には日本の歩みが映し出されていたのだった。明治時代のものは単色の木版印刷だが、印刷技術が発達した大正時代は色鮮やかに進化。戦時中は勇ましい標語が添えられ、敗戦直後は粗末な紙に判を押しただけになった。
「出征する兵士が列車内で食べた日付を記した掛け紙もあります。『どんな気持ちで食べたのだろう』などと思いを巡らせるうち、その時代に引き込まれます」。ホームページを見た駅弁の製造元から「昔の掛け紙を復刻したい」と相談されることもある。
車で製造元訪ねる旅、年間4万キロ
週末になると上杉さんは車を運転して全国の駅弁を買いに行く。コロナ禍で駅での販売をやめた会社もあり、製造元を訪ねるには車が便利だからだ。走行距離は1年で4万キロを超えた。

コレクションは増え続けているが、駅弁は厳しい状況にある。駅弁会社で作る「日本鉄道構内営業中央会」によると、会員企業数はピークだった1967年の405社から86社に減った。上杉さんは、生徒が駅弁を企画する機会を作ったり、自作した掛け紙を駅弁会社に持ち込んだりと、「手弁当」で駅弁を応援している。
「吉田兼好は『徒然草』に、雨の夜に見えない月を思うのも趣があるということをつづりました。掛け紙も、弁当を隠すからこそ想像力をかき立て、よりおいしく食べられるのでしょう。掛け紙には、そんな面白さが詰まっている。丸めて捨てるのは惜しいですよ」
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