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静岡市「おでん処ききょう」
横丁へふらり
「やさし~~」。おでんを口に運んだ客が、目をつぶり、ため息交じりにつぶやく。

ここは、静岡市中心部にある飲食店「おでん



「うちの味を分かってもらいたいから、まずはトッピングをかけないでこのまま召し上がって。そしてスープも飲んでみて」。湯気が立ち上るおでん鍋を前に、店主の新村好子さん(78)にすすめられた。
店を構えて38年。一番人気という大根は、箸がすっと入る軟らかさ。かめば、だしがじゅわっと口の中に広がる。じっくり16時間かけて完成させるというだしは、透き通った黄金色。口に含むと、カツオの香りと昆布のうまみ、牛肉、鶏肉などから溶け出したコク――。すっと体に染み渡っていくようで、「やさしい」の言葉がふに落ちた。
静岡の人にとっておでんは特別なものだ。魅力を発信する団体「静岡おでんの会」によると、静岡おでんは、「黒はんぺんが入っている」「黒いスープ」「串にさしてある」「青のりとだし粉をかける」「駄菓子屋にもある」――の五つの特徴がある。
夏もハフハフ
戦後の食糧難の頃、それまで処分していた牛すじやもつなどを生かすために煮込んだことで広まった。漁港が近く、練り製品の製造が盛んだったことから、独自の発展をとげた。当時、静岡市役所前の大通りには100を超えるおでん屋台が軒を連ねたが、都市開発で近くに移転。現在、横丁に約20軒が並ぶ。


夏でもおでんを食べるのが静岡では当たり前。ききょうでは冬は25種類、夏も20種類のおでん種を用意する。1本100円または200円と手頃だ。名物の黒はんぺん(はんべい)は、サバやイワシのすり身などが原料とあって、ざらっとした食感で魚の主張を感じた。トッピングにイワシの削り節や青のりをかければ、味の変化も楽しめる。油揚げと白身魚の練り物で作る「しのだ巻き」も、この地ならではの具材だ。おでんのお供は、焼酎の緑茶割り「静岡割り」。地元の
「県外からお客さんが来てくれるようになったのは、あのコマーシャルからね」と新村さん。2006年、ビールのCMで俳優の佐藤浩市さんが黒はんぺんを頬張る様子が放映され、静岡おでんは一躍「全国区」になり、横丁の店に行列ができたそうだ。
手間暇かけておいしく、「おでんは正直」
「お客さんが日本のどこからいらしても、その土地の話題で盛り上がれるのは観光バスガイドをしていたおかげ。歌うのも、人と話すのも好きだったから」。新村さんは隣の焼津市で生まれ育ち、高校卒業後、静岡鉄道に入った。研修を経て、1964年の東京五輪の年に観光バスガイドとしてデビューし、8年ほど働いた。

事務職に就いたり、姉の飲食店を手伝ったり。ずっと仕事をしてきたという新村さん。なじみの飲食店の女性店主から「店を引き継いでほしい」と頼まれたのは、40歳を過ぎたころ。3か月ほど迷ったが、「やっぱりあんたにやってもらいたい」と情にほだされ、引き受けた。
満足のいくだしができるまで約30年かかった。元上司が来店し、「女房の作るおでんがうまい」と言えば、プライドを捨てて食べさせてもらいにいったことも。貪欲な探究心が、他店と異なる「黒くないだし」につながった。「だしは和食の原点。手間暇かけないとおいしくならない。おでんは正直ですよ」
来年放送予定のNHK大河ドラマ「どうする家康」は静岡が舞台になる。新型コロナが広がる前は、地元の民謡「ちゃっきり節」を披露して、客をもてなしていた新村さん。自慢のだしと歌声が、訪れる多くの人をやさしく迎えるだろう。