文字サイズ
    自分がもし本屋を開いたら――。本好きな著名人が登場し、書店主になりきります。

    6月の店主は小池真理子さんです

    時間が巻き戻り あの頃へ

     子どものころから、「時間」というものが不思議でならなかった。

     時の流れと共に親しかった人はいなくなり、まわりの風景も変わっていく。駄菓子屋の店先で、にこにこしながら子どもの相手をしていたおばあさんが、ある時から姿を見せなくなる。仲間とよく遊んだ空き地に、いつのまにか見慣れぬよそよそしい家が建っている。大好きだった友達が親の転勤で遠くに引っ越してしまう。そして自分自身もまた、時間の流れに身を委ねながら変容していって、とどまるところを知らない。

     「時間とは何か」ということについて書かれた難しい哲学書も読んでみたことがあるが、何もわからなかった。わからないままに、今日も休みなく時は流れていく。日常は変貌へんぼうし続け、我と我が身も死ぬその瞬間まで、時の流れの中にある。

     一歩、足を踏み入れると、時間がぐるぐると渦を巻いて巻き戻されていくような書店があれば、と思う。建築様式は回廊式。石造りの回廊に囲まれた中庭には、穏やかな日が射している。木製の古びたベンチが、回廊に向かって並んでいる。

     回廊はいくつかの部屋に分かれており、それぞれ刊行年代別に書籍が並べられている。ひとまず、一九六〇年代に刊行された本の部屋に入ってみる。書棚がゆったりと並んでいる。小暗くて、静かだ。ひんやりした空気の中、かすかに古い紙のにおいが漂う。淡い影のようになって本を選んでいる客が数人。

     今ではもう手に入りそうにない懐かしい本のタイトルが目について、思わず胸が踊る。ああ、これ、読んだ。これも好きだった……。うっとりする。

     外に目を転じると、まばゆい日の光の中、中庭の真ん中あたりに植えられた一本の立派なけやきの木の下に、レジ台が見えてくる。小さな椅子がひとつ。そこにいかにも小生意気そうな娘が座っている。十八歳のころの自分である。

     気がつくとベンチでは、かつての古い友人たちや死んだ仲間、会わなくなって久しい人々が本を開き、のんびりと読書を楽しんでいる。みんな当時のままの姿をしている。

     レジ台の私が勢いよく椅子から立ち上がり、「いらっしゃいませ」と言った。顔が上気している。ひどくうれしそうだ。客は誰なのだろう。

     こいけ・まりこ 1952年、東京生まれ。作家。96年『恋』で直木賞、『虹の彼方』で柴田錬三郎賞、『沈黙のひと』で吉川英治文学賞を受賞。最新刊に『死の島』。

    店主の1冊

    ●『夏の闇』(開高健著、新潮文庫、550円) ヴェトナム戦争で絶望した男が、頽廃たいはい的で懶惰らんだな性をむさぼる日々。登場人物は彼と彼のかつての恋人の二人だけ。深遠な言葉で人の内面をえぐりだす極上の小説。しびれる。

    ●『寂兮寥兮かたちもなく』(大庭みな子著、講談社文芸文庫、品切れ)人生は時に残酷だが、すべてゆらゆらと壮大な宇宙に向かって連なっている、という著者の目線が好きでたまらない。

    ●『愛について-プルースト、デュラスと』(鈴村和成著、紀伊国屋書店、2400円)文学的恋愛論。抽象度の高いものを、きわめて詩的な文章であでやかに論じた気品ある一冊。

    ●『冬の日誌』(ポール・オースター著、新潮社、1900円)六十四歳になったオースターが散文的につづる自身の過去は、異国の同世代人間の胸にも強く響く。訳文も素晴らしい。

    ●『クマのプーさん プー横丁にたった家』(A・A・ミルン著、岩波書店、2100円)小学校時代からの愛読書。おとなになった今も、最終章を読むと泣けてくる。

     丸善丸の内本店(JR東京駅前)の3階で、近日中に小池真理子さんの「空想書店」コーナーが登場します。

    2018年06月20日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    大手町モールのおすすめ
    帆布鞄
    リンク