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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・苅部 直(政治学者・東京大教授)

    『親鸞への接近』 四方田犬彦著

    絶対へのまなざし

     「親鸞がきみに接近してきたのだ」。この本の冒頭近くにある言葉が、分厚い書物の全体にわたって、底流として流れている。「きみ」は表題どおり「親鸞への接近」を試みつつある著者自身。しかし、親鸞の側が「きみ」を選んだと語り、世界で生じるすべての出来事が窮極きゅうきょくにおいて阿弥陀あみだ如来の「はからい」に由来すると説くのは、いったい誰の声なのか。

     戦乱や災害など限りなく悲惨な事件を目のあたりにし、苦しむ人々を救うすべがないと絶望するとき。みずからの犯した罪を悔悟し、深いところから心身を震わせるとき。そのときに人は念仏を口にし、来世での救いに近づけるのだが、確実な保証はない。すべてを動かす「はからい」の広大さは、個人の限られた知恵を超えているのだから。――こうした議論には、安定した教団の論理を打ち破るような、親鸞の思想の過激さが現れている。

     この本は親鸞ののこしたテクストと『歎異抄』をていねいに追いながら、宗教思想史におけるその特異性を描きだす。そして後半で、三木清、三國連太郎、吉本隆明と、近代において親鸞への強い関心を示した人々をとりあげる。三木の親鸞像について著者は「日本文化の感傷性に対する、反措定」と特徴づけるが、それはほかの二人にも共通するものだろう。

     慈悲や極楽往生を説く宗派の教説から隔絶した、絶対的なものへむかうまなざしを、三人は親鸞から読み取り、それぞれのすぐれた作品に結晶させていった。親鸞という異様な存在と出会った体験が、独自の創造へと人をかりたててゆく。もしもすべてが「はからい」によって運命づけられるという達観にとどまっていたならば、作品をのこすことはなかっただろう。

     著者もまた親鸞の言葉に打ちのめされ、先行する人々の営みを検証しながら、他者と共有できる言葉へ思考を開こうと試みる。そうした苦闘の記録として、この本もまた輝かしい。

     ◇よもた・いぬひこ=1953年生まれ。映画史、比較文学、漫画などを研究。近著に『署名はカリガリ』。

     工作舎 3000円

    2018年10月15日 05時24分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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