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長く険しい平和への道
群雄割拠・
忠利の母は明智光秀の娘玉(ガラシャ)、父忠興は、次々と替わる政権の主について戦い抜き、豊前一国と豊後二郡を領する小倉藩の藩主となった。父の20年にわたる治世の後、忠利は36歳でようやく当主となり、地域行政の再構築をはかる。ただし徳川幕府体制下では、江戸への参勤や将軍上洛への御供などのために国元を離れる期間が長く、当主不在でも国内統治が滞らないような制度設計が必要であった。
10年の小倉藩統治を経て、細川家は肥後への国替えを命じられた。藩政は行き詰まり、熊本城も塀が崩れ、雨漏りがするという、ゼロどころかマイナスからの再出発である。忠利は百姓による再生産を国の根幹と看破し、役人に対しては「私なき様に」職務にあたるよう説いた。
自国を確固たる統一体にまとめあげるだけでなく、幕府の強力な管理に従い、他国の模範ともならねばならないなど、ポスト戦国の大名は手足を縛られて泳ぐことを強制されているかのようだ。平和への道は長く険しい。
著者は熊本大学において細川家関係古文書類の研究を主導してきた。本書においても一次史料を縦横に活用して、人々の肉声や社会の実相を丁寧に伝えてくれる。また2016年の熊本地震によって、熊本城をはじめとする同地の多くの文化財が被災したことは記憶に新しい。著者はそのレスキュー活動のリーダーでもある。熊本と文化財との波乱に満ちた歴史を思い、復興から泰平への道を重ねつつ、
◇いなば・つぐはる=1967年生まれ。熊本大永青文庫研究センター長。著書に『戦国時代の荘園制と村落』など。
吉川弘文館 1800円