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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・伊藤亜紗(美学者・東京工業大准教授)

    『井深大』 武田徹著

    非科学から生まれた科学

     発明家として、ソニーの創業と経営に関わった井深大。トランジスタラジオやトリニトロンテレビなどを世に送り出し、日本の高度経済成長を支えた一人だ。一方で晩年の彼は、目に見えないエネルギーとしての気や脈といった非科学的なものに傾倒していく。君子豹変ひょうへん、天才発明家もついにボケたか、と周囲はささやく。しかしこの二つの井深像は矛盾するものではない、と著者は言う。むしろ両者の根底にある一貫性こそ井深の本質ではないか。そんな視点から書かれた評伝である。

     そもそも井深の出発点は、中学生の頃に無線にのめり込んだことにある。まだ時計の時刻を合わせるのに毎日駅に出かけてベルを確認する必要があった時代、井深少年は、銚子の無線局が船舶向けに時報電波を送信していることを知る。ならば自分で無線受信機を作り、この電波をキャッチすればよいではないか。大正十三年の第十五回衆議院選挙の折には、大阪毎日新聞社の実験放送を独自に受信していたので、新聞販売店が貼り出すよりも先に、開票速報を把握していたという。

     空間に満ちている電波を捉える。つまり井深は最初から、人々が魔術の領域と呼ぶようなものにこそかれていたのだ。しかし、そもそも科学と非科学は対立するようなものだろうか、と著者は問う。たとえばニュートンは錬金術研究が背景にあったからこそ万有引力を発見できたのだし、デカルトにしたってエーテルを論じている。科学は非科学の中から生まれるのであり、両者の線引きは常に揺れている。

     もちろん素朴すぎるところもある。盟友の盛田昭夫は「井深に悪い虫がつかないよう追い払う役割」を自任していたそうだ。だが、人々がしりぞけるものを信じるところに革新の芽があるとすれば、ボケているのはむしろ凋落ちょうらくしたソニーのほうではないか、と著者は突く。科学哲学や経営論としての奥行きも備えた好書である。

     ◇たけだ・とおる=1958年生まれ。ジャーナリスト、専修大教授。著書に『戦争報道』など。

     ミネルヴァ書房 2800円

    2018年12月10日 05時24分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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