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    情緒あふれる坂に秘められた歴史と物語を掘り起こしていきます。

    代官坂「クリフサイド」の白い壁(前編)

    元船員のタクシードライバーとの出会い

    • 「クリフサイドには、私の知らない大人の横浜がありました」と話す荻野(撮影 高梨義之)
      「クリフサイドには、私の知らない大人の横浜がありました」と話す荻野(撮影 高梨義之)

     芥川賞作家で、ダジャレ愛好家の荻野アンナは、「タクシーに乗るのは小説やエッセーに書くネタを探すため」と断言する。

     かれこれ20年ほど前のことだ。名古屋で乗ったタクシーの初老のドライバー。「どこからお越しですか?」との問いに荻野が「横浜からです」と答えると、「ああ、懐かしい。私も昔は横浜で遊んだものですよ」と破顔一笑した。

     伊勢佐木町、横浜港、マリンタワー…。横浜生まれで、横浜育ちの荻野になじみの深い地名がドライバーの口から相次ぐ。そして、「クリフサイド」の名前が出るにおよび、荻野はぐいと後部座席から身を乗り出したのだった。

     「元町で買い物をして山手に上っていくときに使うのは、元町公園を抜けていく道か、代官坂のどちらかですね。中学、高校時代は、高級食材などを扱う元町の『ユニオン』の紙袋が、紀ノ国屋のそれと同じようにオシャレで、それを手に提げ、ぜーはー言いなが代官坂を上ったものです。その坂の途中にあるのが『クリフサイド』で、白い大きな、お伽話(とぎばなし)に出てくるような建物は、子どもの目から見ると、とてもインパクトがありました」

     タクシーの車中で話した時間は、せいぜい10分か15分くらいだっただろう。ただ、荻野によるとタクシーの車中は、いわゆる密室状態で、他の“雑音”が入らないため、短い時間でもかなり話しこめるという。

     荻野に促されるままに、ドライバーは若かりしころの武勇伝を話し始める。髪をポマードできっちりと固め、お気に入りのダンスシューズでクリフサイドに繰り出したという。そう、クリフサイドとは、終戦間もない1946年(昭和21年)にオープンし、来年創業70年を迎えるダンスホール。往時は、夜な夜な東京あたりから人気俳優がお忍びでやってきたと伝えられる。

     当時、船員だった彼は、クリフサイドで知り合った女性と手紙のやりとりを始める。ちなみに、荻野の父も元船員。2人の話はさらに盛り上がる。お嬢様育ちの彼女からの手紙には、ときおり英語の単語がまじり、その意味が知りたくて辞書を買って調べたりしたそうだが、結局、淡い恋のまま終わってしまった。

     その後、間もなく、荻野はその出来事を横浜市の広報誌にエッセーとして寄せた。その文章をこう締めくくった。

     以来、代官坂を通るたびに思い出す。昔、この坂を、胸をときめかして上がった人がある。他人の記憶で、少し胸を熱くして、足を止める。「クリフサイド」の白壁が、薄暮に鮮やかに、浮かび上がる。

     「横浜ジルバ、いわゆるハマジルの世代の方だったのです。私より1世代か2世代上の方々が、大人の遊び場として楽しんでいたのがクリフサイドでした。ですから、そういった世代の横浜の方にクリフサイドという単語を出すと有効なのですよ。話が盛り上がるのです。そこには、私の知らない大人の横浜がありました」

    「コクリコ坂から」に登場した生花店も

     同じエッセーで荻野は、横浜・山手の住人にとって「買い物をするとは、坂を上がることである」と記している。元町商店街に沿った形で山手の丘が続いている。山手にはこれといった商店はないので、買い物をするには坂を上り下りしなくてはならない。

     ただ荻野の場合、高校を卒業するまでは、丘の上だけで過ごすことができた。幼稚園から高校まで、いずれも徒歩圏内にある山手の私立に通ったからだ。最も遠かったのが幼稚園だったという。高校は、横浜女子御三家の一つ、フェリス女学院。

     「当時はまだ地下鉄のみなとみらい線が通っていなくて、フェリスの生徒のほとんどがJRの石川町駅から石畳を上って通学していました。ですから私は、通学で上り坂に苦労しない数少ない生徒の1人だったのです。

    • 関東大震災後に建てられた宮崎生花店の店舗(昭和10年前後に撮影、同店提供写真)
      関東大震災後に建てられた宮崎生花店の店舗(昭和10年前後に撮影、同店提供写真)
    • 現在の宮崎生花店。目の前を通るのが代官坂
      現在の宮崎生花店。目の前を通るのが代官坂

     そうはいっても、帰宅途中に坂を下り、友だちと一緒に元町の喫茶店に寄り道したりもしました。よく行ったのが、いまも営業している喜久家というケーキ屋さん。1階でケーキを注文して、2階の喫茶で食べるのです。それで1階でケーキを三つくらい注文して、2階に運んで『お飲み物は?』と聞かれたときに、ほんとはコーヒーとかちゃんとしたものを頼まないといけないのに、『水』と答えたりして、いやな客ですよね。

     2、3人でわいわいおしゃべりしていると、学校の先生方が上がってこられて、『こら』と一応怒るのですが、笑顔でそのまま別の席につかれるのです。本当は校則で喫茶店の出入りは禁止なのですが、大目にみてもらいました」

     そのフェリス女学院では、教室や講堂に花を飾る「お花係」がいた。あいにく荻野はその係になったことはないが、お花係が代官坂にある宮崎生花店に毎週、花を買いに行っていたことは覚えていて、前を通るたびにそのことを思い出していた。店の4代目、宮崎弘一によると、いまもフェリス女学院に花を納めているが、生徒が買いにくるのではなく、店から届けているという。

     店の看板に「since1873」とあるように、創業は明治6年。現在の建物は1923年(大正12年)の関東大震災で被災後、建て直したもので築90年以上。そのオシャレで、かわいらしい外観は、スタジオジブリによる映画「コクリコ坂から」にも登場する。この2月には、5代目夫婦が店の一角を使ってカフェを始めた。

    ペリーと縁のある坂の名の由来

     ちょうど宮崎生花店から代官坂を下った目と鼻の先に、坂の名前の(いわ)れ書きがある。それによるとこの坂は、山手の丘を越え、本牧へつながる道で、かつては箕輪(みのわ)坂と呼ばれていた、とある。ところが、坂の途中に横浜村名主・石川徳右衛門が居住したことから、代官坂と呼ばれるようになった。

     徳右衛門は幕末の開港当時、日米和親条約締結のための応接場の設営や食事の準備を任された人物。ペリー提督が横浜村で住民の暮らしぶりを視察した際には、徳右衛門の屋敷を訪れており、その接待の様子は「ペリル提督日本遠征記」に記されている。

     前の箕輪坂の名前の由来は知らないが、行政や地元住民の思惑もあって、ペリー提督のお相手をした地元の有力者由来の名前にとって代わられたのだろう。

     一連の坂の取材で、実際に坂を案内してくれたのは荻野が初めてだ。元町と山手を一通り案内してくれたあと、宮崎生花店のカフェで冷たいアイスコーヒーを飲みながら、話を聞かせてもらった。

     取材の最後に、荻野が、ふとこう漏らした。

     「これからは、坂を上り下りするのに貝殻坂を使うことが多くなりそうです」

     貝殻坂は横浜外国人墓地のわきを抜ける坂道だ。荻野の自宅から元町に出るには、少し遠回りになるが、あえてそうするには理由がある。

     荻野が、父親を95歳で亡くしたのが5年前。そして今年1月、母親を91歳で亡くした。坂を上り下りする際に、両親が眠る外国人墓地に立ち寄り、「お父さん、おはよう」「お母さん、ただいま」と声を掛けたいというのだ。

     (続く、文中敬称略)(メディア局編集部 二居隆司)

     

    2015年05月08日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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