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    少子化、核家族化で変わる「家族のカタチ」を紹介する読み物。

    金田一秀穂さん…3代目の重圧なんてありません

    使命感の京助、マイホーム主義の春彦

    • 祖父・京助(左から2人目)、父・春彦(左端)らと一緒の家族写真。右から3人目が秀穂さん(1958年、本人提供)
      祖父・京助(左から2人目)、父・春彦(左端)らと一緒の家族写真。右から3人目が秀穂さん(1958年、本人提供)

     子どもにとって、モデルとなる大人は身近にいる家族ですよね。うちの場合は、祖父も父も学者だったため、「いつか自分も父のような学者になるのかな」と思っていて、サラリーマンになるなんて想像もつきませんでした。父が職人であれば、僕も職人を目指していたんじゃないでしょうか。

     <金田一京助、金田一春彦という高名な国語学者の祖父と父を持ち、自身も同じ道に進んだ秀穂さん。3代の学者は、明治、大正、昭和とそれぞれ時代の影響を受けながら、国語の研究を続けてきた>

     京助は明治生まれ。いわゆる家長として、家族の中でとても尊敬されていました。長男だったので、出身地の盛岡に帰ったときにも「兄さま、兄さま」と呼ばれて大切にされたそうです。

     僕は一緒に住んでいたわけではありませんが、家の中に祖父がいると緊張感があって、孫である僕らも「お行儀よくしようね」という感じ。今の感覚からいえばとても威張っていたけれど、お金儲けが一番ではなく、使命感が一番の人でした。それは、日本という国への使命感です。アイヌの人の言葉を研究したのも、敬語を大切にしたのも、言葉づかいに厳しかったのも、すべて日本のため、国家のため。そういうところがありました。

     家族を顧みず使命感に生きた京助に比べ、春彦はずっと俗物でマイホーム主義でした。有名になることやお金を稼ぐことが優先で、何よりも家族を大切にした。これは、明治生まれと大正生まれの価値観の違いでしょうね。

    知ることの面白さを教えてくれた父

     <京助は、幼かった春彦に漢文の素読や習字をさせて国語を教えたが、春彦はそれが大嫌いだったので、自分の子どもにはさせなかった。そのかわり、家庭の中では子どもたちの好奇心を刺激する会話がたくさん交わされた>

    • 父・春彦(左)と2人で本をのぞきこむ若かりしころの秀穂さん(1968年、八ヶ岳の山荘で。本人提供)
      父・春彦(左)と2人で本をのぞきこむ若かりしころの秀穂さん(1968年、八ヶ岳の山荘で。本人提供)

     祖父は父に対して「教え導く」という気持ちが強かったと思いますが、父は僕に対してそういうことはあまり考えていなかった気がします。それよりも、自分が楽しいと思うことを息子と楽しむのが大切だったのではないか。

     たとえば、東海道線で東京から湘南のほうに向かうと、だんだん家のアンテナが高くなってくるんですね。今は違いますが、昔はそうだったんです(笑)。茅ヶ崎あたりで父が「アンテナが高くなってきたな」と言う。「そうだね」と答えると、「なぜアンテナが高いかわかるか? 東京から離れているからだぞ。東京の電波を受け取るために高くなっているんだ」と言うのです。

     僕は「ほう~っ」と思ってね。父の一言で、日常的な景色やごく当たり前に見ているものが、意味あるものに思えてくる。わかることって面白い。知ることって面白い。見えなかったことが見えるようになるのはとても面白いんだと、さまざまな会話で植え付けてくれました。父も自分が面白いと感じることを、子どもが理解して聞いてくれることがうれしかったんじゃないかと思いますね。

    祖父と父はライバル、僕と父は友だち

     父とは神田の古本屋街を歩き、「これ、面白いぞ」と言いながら本を探したこともありました。他の兄弟はあまり興味を示しませんでしたが、歴史の本や、中国の本、年表や系図など、父と僕は好きなものが一致していたんです。ただ、父は教えようとして意識的にやったわけではなく、好きなことを息子と一緒に楽しみたかっただけだと思います。

     祖父と父は反発し合うライバルのような関係でしたが、僕と父は友だち。一緒にいるときは、好奇心をどこまで広げられるか競争している感じだったし、わかり合える仲間でもありました。何かを学んで理解し、表現する。そういう仕事に就きたいと思わせてくれたのが父でした。

     <秀穂さんは学者になりたいと思っていたものの、どこへ行っても「金田一」という名前がついてまわり、日本語や国語と結びつけられる。その反発もあって、大学では心理学を専攻した。大学卒業後は就職もせず、パチンコをしながら読書にふける日々をおくる>

     そんな僕に対しても、父は「早くしろ」とは言いませんでしたね。「あの子なら大丈夫だ」と信じてくれたんだと思います。その後、外国に行きたいなあと思っていたら、「日本語を教える仕事があるぞ」と父がヒントをくれた。よい先生との出会いもあって日本語教師になり、中国やアメリカで日本語の指導をしてきました。それが、今の仕事へとつながっていくのです。

    子どもには、好きなことを貫いてほしい

     <現在は大学で教鞭(きょうべん)をとりながら、テレビのバラエティー番組などにも出演する。ユーモアたっぷりに日本語の成り立ちを語り、クイズでの失敗も笑い飛ばす気さくさが人気だ>

    • 「父と僕は好きなものが一致していたんです」(撮影 二居隆司)
      「父と僕は好きなものが一致していたんです」(撮影 二居隆司)

     よく、「3代目のプレッシャーはないのか」と聞かれますが、最初から僕自身は京助や春彦のような仕事ができるとは思ってもないわけです。3代目だから、同じ家族だからできるはずと勝手に期待されても、そんなはずないじゃない。学者の仕事は、ゼロから始めるしかないんですから。

     金田一という名前でバイアス(偏見)をかけられるのは不自由だなあと思いますが、そのおかげでテレビ出演したり、こうしてインタビューも受けている。みんなが3代目だと(だま)されているうちに、「しめしめ稼ごう」と思ったりもしているわけです(笑)。

     僕には息子1人と娘が1人いて、2人とも30代になりました。息子は売れない演劇をいまだにやっている。お金がなくて結婚できないぞと言っても、好きでやっているんですよ。でも、それでいいと思う。自分の子どもに限らず、人は好きなことをしたほうがいい。僕は子どものころに大病をしたため、報われない努力はつまらないと考えるようになった。でも、好きなことであれば(はた)から見ればどんなに大変でも、一生懸命やるものですよ。

     京助と春彦と僕は、好きなことがたまたま国語だったんです。僕は外国に行って外国の人と話すことが楽しかったから日本語をやったし、父は音楽が好きだったから音楽と似ている言葉のアクセントを研究した。祖父はもう少し文学に近くて、アイヌ語のユーカラという特別な文学を好きになった。でも、アクセントもアイヌ語もお金にならないから、辞書を書いたり講演をしたりテレビに出たりしていたのです。僕ら家族はみんな、稼ぎながら、好きなことをやってきたんですね。

    本物に触れる大切さ

    • 父・春彦さん(右)と談笑する秀穂さん(2003年、春彦宅で。本人提供)
      父・春彦さん(右)と談笑する秀穂さん(2003年、春彦宅で。本人提供)

     だから息子も、好きなことはとことんやればいい。当人は将来を心配しているようですが、僕は「なんとかなるんじゃない」と思っています。娘は和菓子職人になりました。あんこが好きで、以前留学したスイスであんこを広めたいという夢を持っているんです。僕が3代目だからといって、家族にも国語をやってほしいとは全然思いません。

     息子も娘も、自分の好きなものを見つけることができて本当によかった。その出会いは運であり、めぐり合わせです。僕がいい先生に出会って日本語をやることになったのも運です。何のために大学に行くか、何のためにお金があったほうがいいかというと、運の幅を広くするためだと思うんですよ。ある程度の豊かさがあれば、可能性は増えていきますからね。

     大人は子どもに、なるべく多くの本物を与えるのが義務だと思います。音楽、絵、建築、景色……。すべてにおいて本物を見てほしい。そう考えていくと、本物の日本語というのはとても簡単に手に入ります。夏目漱石の日本語も、井伏鱒二の日本語も本物です。今は無料でインターネットで読めるものもあるんだから、すごい時代ですよね。

    (取材・構成 菅聖子)

     <プロフィル>きんだいち・ひでほ 1953年、東京都生まれ。杏林大学外国語学部教授。上智大学文学部心理学科卒業、東京外国語大学大学院博士課程修了。中国大連外語学院、コロンビア大学などの講師を経てハーバード大学客員研究員などを歴任。著書に『金田一家、日本語百年のひみつ』『適当な日本語』『「汚い」日本語講座』など。

    2016年02月16日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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