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    プロレス史に残る事件・出来事の真相に迫ります。

    アイドルとして人気ブレイク…キューティー鈴木<3>

    • 「急に芸能の仕事が忙しくなって、なかなか練習に行けなくなりました」(撮影 高梨義之)
      「急に芸能の仕事が忙しくなって、なかなか練習に行けなくなりました」(撮影 高梨義之)

    町を歩いていて「あ、キューティーだ!」

     アイドルのような扱い方をされるようになったのは、デビューして3年目、19歳くらいのころからですね。団体から、そのような売り出し方をするとの説明はとくにありませんでした。

     それまでも、他のレスラーもそうですが、テレビの仕事など芸能の仕事をちょこちょこやっていたのですが、イメージビデオを撮るということで、フィリピンの島に撮影に行ったのです。そのビデオが発売されるあたりから、頻繁に仕事が入ってくるようになり、ビデオの宣伝で忙しいのかなと思っていたら、急にものすごく忙しくなって、練習にもなかなか行けないような状況になったのです。

     テレビや雑誌の仕事に加え、CDも出しました。ビートたけしさんの「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に出させてもらったのも、ちょうどそのころ。ただ、あまりに忙しくて、自分が出ているテレビや雑誌を見る機会がないんですよね。ですから、いろんな人から「雑誌に出ていたの見たよ」とか言われても、実感がありませんでした。そういえば、そういう仕事をしたな、というくらい。

     地方の巡業に行くと、それまで普通に歩いていても気がつかれなかったのが、「あ、キューティー鈴木だ」と言われたりして、「どうして知ってるんだろう?」って。最初のうちは、これでお客さんが会場に来てくれればいいという感じでしたが、だんだん「私はどこに行ってしまうんだろう?」と思うようにもなりました。

    とにかく痛かった尾崎の反則

     <デビューから3年たった1989年は、“アイドル・レスラー”としてキューティー鈴木が大ブレイクした年だった。「週刊ヤングジャンプ」の表紙を飾り、歌手デビューも果たす。“希代のヒール”尾崎魔弓との抗争では、そのいじめられぶりが、男性ファンの心をゆさぶった>

     当時は、尾崎のようなヒール相手の試合が多かったですね。尾崎はがんがんくるタイプだったので、試合はやりやすかったです。ただ、痛いんですよ。それは嫌でしたね。技ではなく、髪の毛をひっぱられたり、()まれたり、ひっかかれたり。そういう、わかりやすい反則が多くて、普通の生活をしていたら経験しなくていい痛みまで経験しました。自分もやり返したりしましたが、向こうのほうが一枚も二枚も上手ですからね。

     尾崎と試合するときは、頭の中に「ああ、またやられるんだろうな」という思いがあって、いま振り返ってみると、そこは割り切って、もっとやられておけばよかったと思うのですが、当時はできれば避けたいと思っていました。「やられていたほうがいい」と言われるのは嫌でしたね。

     やはりレスラーですから、強く見られたいですよ。でも、強くなかったので、言い返せないわけです。それが自分に一番合っているのかなと、思えるようになったのは、だいぶあとになってからですね。何年かして、ちょっと大人になって、自分のプロレスの形を見つけることができたのには、やはり尾崎の力が大きかったのだなと、いまになって強く感じます。

     レスラーとして、ほんとすごいなと思ったのは、デビル(雅美)さんですね。体は大きいですし、どんな地方に行っても、デビルさんがリングに上がるだけで、会場が盛り上がるのです。それまで、し~んとしていても、デビルさんがなにかすると、わっと会場が沸くのです。

     対戦相手と組む姿とか、きりっとした表情とか、その一つ一つがプロなんです。それはすごいなと、いつも思っていました。ですから、デビルさんと組むなり、対戦するときは、安心できるんですよね。間の取り方とか、表情の作り方とか、レスラーとして学ぶことが多かったですね。プロレスのことでわからないことがあると、デビルさんに聞くのですが、教え方が上手で、その人のレベルに合わせて説明してくれて、とてもわかりやすかったです。リングを下りると、すごく優しくて、かわいらしい人なんですよ。よく、どこそこの食べ物がおいしいとか、楽しく会話させてもらいました。

     <キューティー人気の盛り上がりはあったものの、ジャパン女子自体の興行は旗揚げ当初から苦しいままだった。旗揚げから6年、92年1月26日の埼玉・熊谷大会を最後に興行を打ち切った>

    • 1998年の引退後も、芸能活動を続ける。2008年には、尾崎魔弓(左)、納見佳容(中央)らとVシネマ「コールドムーン」に出演した(写真提供 報知新聞社)
      1998年の引退後も、芸能活動を続ける。2008年には、尾崎魔弓(左)、納見佳容(中央)らとVシネマ「コールドムーン」に出演した(写真提供 報知新聞社)

     デビューしてから3年くらいは、プロレスができて楽しいと思っていましたが、お客さんが全然入らなくて、売店でモノを売ってお金を稼がないと、その日の晩ご飯が食べられないような毎日でした。ですから、試合が終わって着替えたらすぐ売店に行って、パンフレットとかブロマイドを売っていました。最初はそれも楽しかったですが、だんだん子どもながらに、これで大丈夫なのかなと思うわけですよ。

     ずっと経営が苦しいままで、社長もしょっちゅう代わって、最後のころはだれが社長かわからない、いつつぶれてもおかしくない状況でした。ですから、1か月前くらいに熊谷大会が最後と言われても、それが本当に最後なのか、わからなかったのです。

     ジャパン女子がなくなったときは、もう夢もかなえたので、やめてもいいかなと思ったのです。親も「もういいんじゃないの」と。まだ、23歳と若かったので、どうにでもなると思っていました。好きで入ったプロレスの世界ですが、ちょっと熱がさめた時期でもあったので、高校卒業の資格をとるなり、専門学校に行くなりして、別の仕事に就こうかと思ったのです。

     (続く、文中一部敬称略)(聞き手・構成 メディア局編集部 二居隆司)

    <キューティー鈴木=きゅーてぃー・すずき>
     1969年生まれ。埼玉県川口市出身。本名、原嶋由美(旧姓、鈴木)。155センチ、55キロ。86年、ジャパン女子プロレス入団。同年9月19日、徳島市立体育館での対プラム麻里子戦でデビュー。89年、「週刊ヤングジャンプ」の表紙を飾るとともに、歌手としてデビュー。リング以外でも、アイドルとしてテレビのバラエティー番組やドラマ、映画で活躍する。92年、ジャパン女子解散後、JWP女子プロレスに入団。尾崎魔弓、ダイナマイト関西らと同団体の屋台骨を支える。98年12月27日、後楽園ホールでの8人タッグでもって引退。引退後の2005年5月、結婚。現在は2児の母。14冊の写真集発売は、女子プロレスラーとして最多。
    2015年04月01日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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