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    プロレス史に残る事件・出来事の真相に迫ります。

    リングネーム命名は秋元康さん…キューティー鈴木<2>

    「優しいおじいちゃん」だった小鉄さん

     入団して寮に入ってからは、朝6時からロードワーク、午前と午後に練習という毎日でした。練習が厳しいということは、前もって覚悟していたのですが、いざ自分で体験してみると、ほんとしんどくて、毎日が筋肉痛でした。筋肉痛の上に筋肉痛が重なるという感じで、痛みがとれないのです。それまで自分なりに鍛えていたつもりでしたが、負荷がかかる部分が全然違いました。

     それと精神的にも(つら)かったですね。周りは知らない人ばかりで、年齢も私は下のほうでしたから。みんな16歳から20歳くらいまでの女の子で、いま思えばストレスがあったのでしょうが、若いのでそれがストレスとわからないのです。狭い寮に大人数で住んでいるので、喧嘩(けんか)も起きます。人間関係が辛かったですね。それまで、プロレスラーになるために、とにかく食べまくって体重を増やしていたのですが、いっきに痩せました。

     <1986年(昭和61年)1月に旗揚げを発表したジャパン女子プロレスは、8月17日、後楽園ホールで初めての興行を打つ。その日に向け、新人たちに厳しい練習が課せられた>

    • 「デビュー前に一度だけ、辞めようと思ったことがあります」
      「デビュー前に一度だけ、辞めようと思ったことがあります」

     コーチ役の(山本)小鉄さんは、わかりやすい方で(笑)、練習のときはほんと「鬼の小鉄」で、竹刀でもってびしびしやるのですが、終わると急に優しくなって、「何か悩みがあるのか? あるなら、いつでも言ってくれ」と声をかけてくれたり、「優しいおじいちゃん」でした。

     小鉄さんがいつも言っていたのは、「思いやりを持て」ということです。これはプロレスでも私生活でも、という意味です。「プロレスは、相手をけがさせるためにやっているのではない。ただ、痛いのは当たり前」と、よく言われました。

     神取(忍)さんには、よく受け身の練習の面倒をみてもらいました。神取さんは、当時ジャパン女子の四天王(ジャッキー佐藤、ナンシー久美、風間ルミ)と呼ばれた1人なのですが、そのときはまだプロレスデビューしていませんでした。ただ、柔道で実績を残していた方なので、気安く話しかけるような存在ではありませんでしたね。ずっと上の人でしたから。

     神取さんから言われたのは、「スタートが遅れても焦るなよ。ゴールはみんな一緒だから」ということ。よく見捨てずに面倒をみてくれたと思います。

     練習を重ねているうちに、できる子とできない子で分かれてくるんですよね。私はできない子のほうだったので、ずっと受け身の練習ばかりさせられていました。じきに、8月の旗揚げ戦に向けて、できる子たちをメインに教えるようになり、私のようにできない子は、食事つくりとか裏方の仕事を任されるようになりました。

     正式に、8月の旗揚げ戦に出場する選手が発表されたのは、試合の1か月くらい前でした。同期の新人では、尾崎(魔弓)、プラム(麻里子)、(ダイナマイト)関西、(ハーレー)斉藤が選ばれ、私は選ばれませんでした。ある程度、予測はついていたのですが、やはりショックでしたね。

     デビュー前に一度だけ、プロレスを辞めたいと思ったときがあります。コーチ役のグラン浜田さんと一緒にやってきたメキシコ人レスラーがいて、彼女がいろいろ教えてくれるのですが、私たちはまだその域に達していないわけですよ。技といっても、ドロップキックとか、首投げ、ボディスラムくらい。「いま、そんな(高度な)技を使うと怒られるよ」と言うと、「そんなこと言うのなら帰れ」と言うのです。ちょうど精神的にもまいっていたときなので、「もう、いいかな」と思ったのです。

     それで母に電話して「帰りたい」と伝えたのです。あれだけプロレス入りに反対した母ですから、迎えにきてくれるものと思っていたら、「もう少し頑張りなさい」と言うのです。それから2、3日してから、母から小包が届きました。お菓子とか日用雑貨品と一緒に、お金の入った封筒が詰められていました。それで、もう少し頑張ってみようと思い直したのです。

    想定外だった地方でのデビュー戦

     <旗揚げ戦は裏方の仕事に徹したが、その1か月後、徳島市立体育館でデビューを果たす>

    • 「もっと強そうなリングネームのほうがよかったです」(撮影 高梨義之)
      「もっと強そうなリングネームのほうがよかったです」(撮影 高梨義之)

     旗揚げ戦のときは、紙テープの片付けとか、選手が入場する際の先導とかをしていました。リングの下から、「みんなすごいな。私もデビューできるのかな」と思いながら同期の選手の試合を()ていました。先を越されて悔しいと同時に、自分はデビューできるのかな、このままデビューできずに終わってしまうのではと、焦る気持ちがありましたね。

     旗揚げ戦は、タレントさんが来場したりして、超満員で大変な盛り上がりようだったのですが、(にぎ)やかだったのはその日だけで、あとは全然お客さんが入りませんでした。お客より、選手のほうが多いときもありました。

     デビューは、会場でリングを作っているときに、リングアナウンサーの方から伝えられました。実はその日の朝、プラムから「由美(キューティーの本名)と試合をする夢を見たんだよ」と言われ、「そう。私も早くデビューできるといいな」と言っていたのです。それも対戦相手が、そのプラムなので、ほんとびっくりでしたね。

     突然デビュー戦と言われたので、緊張する間もなくて、それがかえってよかったのかもしれません。試合は負けましたが、自分の思うように自由に試合ができたと思っています。ただ、自分の中でデビュー戦は、後楽園ホールで華々しく行うものと、勝手に思い込んでいたので、地方でのデビューは、予定外のことでした。デビュー戦で、両親とか同級生が応援にきてくれる光景を頭の中で思い描いていたので。母には、試合が終わってから電話で連絡したくらいです。

     キューティーというリングネームは、旗揚げ当時、ジャパン女子のアドバイザーを務めていた秋元康さんが、考えてくれたのです。ただ、最初言われたとき、すごく嫌で、断ったのです。私としては、秋元さんが考えてくれるというので、すごく期待していたのですが、イメージしたようなリングネームでなかったので。そんな甘い感じでなくて、強そうな、かっこいいリングネームを付けてほしかったのです。

     考え直してくれるというので期待していたら、次に提案されたのが、「アップル鈴木」でした。「え~」って言うと、「キウイもあるよ」と言われたので、「もう、どれでもいいです」ということで、キューティーになったのです。

     (続く、文中一部敬称略)(聞き手・構成 メディア局編集部 二居隆司)

    <キューティー鈴木=きゅーてぃー・すずき>
     1969年生まれ。埼玉県川口市出身。本名、原嶋由美(旧姓、鈴木)。155センチ、55キロ。86年、ジャパン女子プロレス入団。同年9月19日、徳島市立体育館での対プラム麻里子戦でデビュー。89年、「週刊ヤングジャンプ」の表紙を飾るとともに、歌手としてデビュー。リング以外でも、アイドルとしてテレビのバラエティー番組やドラマ、映画で活躍する。92年、ジャパン女子解散後、JWP女子プロレスに入団。尾崎魔弓、ダイナマイト関西らと同団体の屋台骨を支える。98年12月27日、後楽園ホールでの8人タッグでもって引退。引退後の2005年5月、結婚。現在は2児の母。14冊の写真集発売は、女子プロレスラーとして最多。
    2015年03月31日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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