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    プロレス史に残る事件・出来事の真相に迫ります。

    いつまでもGo for broke!…マサ斎藤<5>

    • プロレス史に残る「巌流島の戦い」(撮影 山内 猛)
      プロレス史に残る「巌流島の戦い」(撮影 山内 猛)

     猪木さんとはね、1966年(昭和41年)に俺が豊登さんと一緒に日本プロレスを離脱し、東京プロレスに参加する前に、ハワイで初めて会ったんです。猪木さんも

    東京プロレスに参加することになっていて、アメリカ遠征からの帰りにハワイに立ち寄った。

     俺はのんきに朝飯食べて、そろそろ、なんて思っていたら、もうジムへ行ったと。「しまった、出遅れたっ!」と思って、ジムへ急いだんです。そこで初めて、地元のジムでスパーリングをしたんだけど、組んだ途端に「強い」とわかったね。それに、実にしなやか。「“ターザン”みたいな人だ」というのが第一印象。

     俺も東京オリンピックのアマレス重量級代表だけど、なかなかきめることができない。猪木さんがアマチュアでなくてよかったなと思いましたよ。もしそうだったら、俺は五輪の代表になれなかったかもしれないから。

     <アントニオ猪木をエースに旗揚げした東京プロレスは、わずか3か月で内部分裂する。猪木は古巣の日本プロレスに復帰するも、日プロの旧態依然とした体制に嫌気が差していたマサ斎藤は、アメリカに生きる道を見いだそうと渡米。その後、プロレスラーとして一番脂がのった時、逆輸入選手としてマサ斎藤は新日本のリングに参戦し、猪木と幾度もあいまみえる。その2人の戦いの集大成といえるのが、1987年10月4日の「巌流島の戦い」だ。剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎が果たし合いをした山口県の巌流島を「リング」に、時間無制限・ノーレフェリー・ノールール・無観客で行われた前代未聞の試合は、2時間5分14秒の死闘となり、最後は猪木のスリーパーホールドでマサ斎藤は意識を失った>

     ハワイでは、猪木さんからアメリカのマット事情について、いろいろ聞かせてもらったんだ。そういう意味では、俺がアメリカマットに目を向けるきっかけになったのは、猪木さんかもしれない。

     その猪木さんが、「巌流島の戦い」に応じるレスラーはいないかと呼びかけたとき、「俺しかいない」と思ったね。

     俺たちレスラーは、客がいて、その反応を聞きながら試合をするわけですよ。よく、ブーイングの嵐の中で闘うのは辛くなかったかと聞かれるが、俺は、「トップになって稼ぐためにリングに立つ」と割り切って考えていたので、ブーイングは大歓迎。優秀な“プロ”レスラーとは、客を呼べるレスラー。その意識が染み付いて突っ走ってきた。だから、無観客というのは、ほんとやりにくかったな。ざあ~、ざあ~と、波の音、海の音しか聞こえない。これが、禅で言う“無”なのでろうか。どう戦おうかも何も念頭にはなかった。とにかく、相手をぶちのめしてやろう。スタミナの続く限り戦おう。それだけしか、考えていなかった。

     途中から試合に没頭して、周りがまったく見えなくなったんだ。試合の途中で暗くなって、リングの周りにかがり火がたかれていたんだけど、それさえ気がつかない。90分も必死に戦って、汗だくの体が、夜風に打たれ、ブルッと来た。ここで、われに返ったというか…。試合の終わる10分ぐらい前かな。ふと気がつくと、周りにかがり火がたかれている。「あ、もうそんなに時間がたったのか」と思った。最後はスリーパーホールドをかけられ、息ができなくなって。切り返そうにも、力が出なかった。

     負けはしたものの、試合内容には悔いはないよ。猪木さんと俺の2人でなければできない試合だったから。何せ前代未聞の2時間余りの1本勝負。2人とも、汗と血まみれで脱水症状だった。猪木さんは鎖骨、俺は剣状突起が折れてたが、俺は、その痛みより、喉の渇きを癒やす方が先だった。ビールを50缶は飲んだな。十分に体が潤ったところで、病院へ向かったんだ。

     <実は現在、マサ斎藤は引退直後の2000年にパーキンソン病を発症し、進行性の難病と終わりが見えない格闘をつづけている>

    • 「次の東京五輪までには、体を元に戻します」(撮影 井上TORA)
      「次の東京五輪までには、体を元に戻します」(撮影 井上TORA)

     パーキンソンと言っても色々なタイプがあるようで、俺のは、ちょっと変わっているそうだ。多くの場合、震えは、手や足から来ることが多いらしいが、俺の場合は、顎から始まった。そのため、国内外の病院を訪ね、多種多様の検査を受けたのだが、どこも原因はわからずじまい。2000年に最終的にパーキンソン症候群の一つと診断されたのは都内の難病専門のクリニックだった。アメリカにまで行ったりしたけど、まさに灯台下暗しですよ。

     原因は、まずは脳へのダメージ。2メートル級の選手に頭から落とされ、誰とどんな試合をしたか、記憶が欠落するほどの失神を4回くらっている。他に暴飲暴食や、リングに上がり続けるために飲んだ強い鎮痛剤も関連しているとも言われたが、基本は、俗に言う“パンチドランカー”といわれる脳へのダメージが原因だと俺は思っている。残酷な職業病だよ。

     しかし、この顎の震えは、よく見ないとわからない状態から、徐々に大きくなり、(ひど)い時は、歯がカチカチ音を立てるほどになり、呂律(ろれつ)がまわらなくなることもあるんだ。何度、自分の顎を殴ったことか。

     1日中、大きく震えているわけではないんだけど、この大きな発作が来たら、食べられない、しゃべれない。1日平均、4回ぐらい襲ってくる。その時は、震えに加え、こめかみのあたりが、圧迫されたようで、目を開いているのも、辛い。薬を飲んでも、すぐ治まるような簡単なものではない。1時間続こうが、嵐が過ぎ去るまでじっと待つしかない。

     毎日のように、「なぜ俺だけが、こんな思いしなきゃならないんだ」と、折れそうになった時に支えてくれたのが、気丈夫で前向きなワイフ。それに、多くを失い、一番苦しい時に、手を差し伸べてくれたのが、(佐々木)健介と北斗晶夫妻だった。道場を開き、後ろ向きになっていた俺に、「リハビリ感覚でいいから、若い選手を育てて下さい」と声をかけてくれたんだ。最初は、「プロレスは、教えられるものでなく、見て盗むものだ」などと言って、断ったが、ワイフにも背中を押されて、引き受けた。プロレスラー目指す若者を相手に、まずは、“ビルドアップ”(体作り)から始め、6人の卵を(かえ)した。孫、ひ孫の年の連中でも、プロレスが好きな者同士、年齢の隔たりもなく、言葉がなくても、心が通じ合える大好きなレスリング仲間に囲まれ、俺は、ようやく、(よみがえ)ったんだ。健介と北斗のお陰だ。感謝に堪えない。

     <進行性の病魔は末期までマサ斎藤を追い込んでいる。手足が不自由なものの、プロレスのことを語るときの目は、レスラーそのものだ。マサ斎藤がモットーとしている「Go for broke!」の精神はいまも失われていない>

     パーキンソンに付き物の転倒が、一昨年の11月までなかったのは、主治医(いわ)く、レスリングで鍛えてきた賜物(たまもの)だとか。それを、持続させてくれたのも健介道場。

     しかし、突然、バタンバタンと電柱が倒れるように、転倒が始まったんです。それで、一気に障害者手帳まで交付され、去年の秋には、続く転倒で知らぬ間に、膝に水がたまり化膿(かのう)し、感染症で救急車で病院に運び込まれた。結局、3度の転院を重ね1か月半の入院ですよ。

     薬の副作用も出て来て、その調整とリハビリの毎日。でも、俺は、負けない、負けるもんか。格闘人生を歩んで来た俺が、ここまで来て、そう簡単に倒れることは出来ない。絶対に負けるもんか。生涯最大の強敵と、闘って、闘って、闘い続ける。死ぬまでGo for broke!(当たって砕けろ)。それがいまの心境。

     Go for broke! というのは、アメリカの日系人がよく使う言葉なんですよ。第2次世界大戦で、日系アメリカ人で編成された第442連隊戦闘団が、敵に包囲されたテキサス大隊を自らの犠牲も省みず救出した。その部隊の合言葉が、Go for broke! 俺は1968年にアメリカに渡ったけど、そのときの心境は、まさに「当たって砕けろ」だった。アメリカに渡ってプロレスで成功しなければ、自分の人生は開けていかないと思ったから。

     2020年に再び東京でオリンピックが決まったでしょ。あのときは、びっくりしたよね。まさか、また東京でオリンピックが開かれるようになるとは、思ってもいなかった。自分ももう一度、オリンピックに関わりたいと思ったんです。

     だから、5年後、東京オリンピックの年までに、必ず体を元に戻す。Go for broke!の精神で、こんどは選手でなくゲストでカムバックしますよ。

     (終わり、文中一部敬称略)(聞き手・構成 メディア局編集部 二居隆司)

    <マサ斎藤=まさ・さいとう>
     1942年、東京都出身。180センチ、120キロ。64年、フリースタイルとグレコローマンの全日本アマチュア2冠を制覇、東京五輪ではレスリング重量級フリースタイル代表。明治大学を卒業後、65年に日本プロレス入り。同年6月、デビュー。66年、東京プロレス参戦。同団体が消滅後、フリーとなり、68年渡米。西海岸を手始めに、フロリダ、カナダ・バンクーバー、ミネアポリスなどを転戦。ニューヨーク(現WWE)参戦中の2年間はマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)でメインを張り、AWAでは対ハルク・ホーガンとの全米ツアーで全都市ソールドアウトを記録するなど、トップヒールとして活躍した。全米マットでの王座獲得多数。長年の功績が認められ、2008年に米国(ルー・テーズ)レスリング博物館殿堂入りを果たす。1974年以降、定期的に新日本プロレスに参戦。82年以降は、活動拠点をアメリカに置きながら、長州力の維新軍、ジャパンプロレスにも参加。87年10月、アントニオ猪木との「巌流島の戦い」を機に、ニューヨークからのオファーを断り、帰国。新日本では、主に猪木に対するヒールとしてファンを沸かせ、日本マットでも数多くの伝説を生んだ。選手での活躍以外にも、海外渉外役としても活躍。人気外国人選手の 招聘 ( しょうへい ) はもとより、ビッグバン・ベイダー、スコット・ノートン、ドン・フライなどを発掘し、無名選手の才能を見抜く目は高く評価された。獣神サンダー・ライガーを本名で呼んだり、“変な日本語”のマイペースでユニークなテレビ解説でも人気を集めた。99年2月、日本武道館で引退。現在、かつてない強敵、パーキンソン病と格闘を続けている。
    2015年02月06日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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