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    プロレス史に残る事件・出来事の真相に迫ります。

    父・力道山の死から51年…百田光雄<1>

    • 日本プロレス界の父・力道山と百田(右)。左は兄の義浩=本人提供
      日本プロレス界の父・力道山と百田(右)。左は兄の義浩=本人提供

     戦後のスーパースター・力道山の次男で、自身も日本人の現役最年長レスラーとして活躍する百田光雄の登場だ。まずは51年前のきょう(12月8日)、力道山が暴力団員に短刀で刺され、この傷がもとで死亡した事件について話してもらった。

    「大変なことが起きたな」

     あのとき僕は15歳でした。父が作ったリキアパートの最上階にあった子ども部屋にいたのですが、父がなにかケガをしたというので下の階の食堂に行きました。しかし、人が大勢いてバタバタしていたので、父と話をすることは出来ませんでした。

     食堂の入り口から座っている父が少し見えましたが、いつもと変わりない様子で、傷口を押さえたり、痛そうな表情をしてはいなかったと記憶しています。もっとも、父は人前で弱さを見せることがない人でしたから、本当は痛みをこらえていたのかもしれません。

     子ども部屋に戻り、外が騒がしいのでベランダから見下ろすと、アパートの入り口のところで大勢の人が言い争っているようでした。ちょうど父を刺した人と所属する団体のトップの人が謝罪にきたところで、彼らをリキアパートの入り口近くにあった合宿所にいたレスラーが取り囲んでいたのです。「大変なことが起きたな」と感じました。

    死因は炭酸飲料? 医療ミス?

     <日本プロレス界の父・力道山は東京・永田町のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団員とささいなトラブルからケンカとなり腹部を短刀で刺された。当初は全治1か月とされていたが1週間後に腹膜炎で亡くなった。39歳だった>

     父が入院してからは毎日、お見舞いに行きましたが、普段より無口な感じでした。亡くなった15日も全然しゃべらなくて。午後3時くらいにお医者さんが「容体は安定しています」と言うので帰宅したところ、夜になって「状態が一変した」と連絡があったのです。急いで駆けつけたときには、もう息はありませんでした。

     父は家族にとって、ものすごく太い大黒柱でした。僕は父が大勢とケンカして簡単にやっつけてしまった場面も見ていて、そういう意味も含めて、ものすごく強いことを知っていましたから、急に死んだと言われても信じられず、頭が真っ白になりました。

     父の死については、いろいろな説がありますよね。例えば、炭酸飲料を飲んだために傷が悪化したというのもあります。確かに父は冷えたサイダーが大好きでしたから、僕たちが帰宅した後に飲んだのかもしれません。父に「サイダーを持って来い」と言われたら周りの人間は「はい」としか言えませんから。

     また、医療ミスという話もあって、麻酔を担当した医師はもう亡くなったそうなのですが、生前「あれは医療ミスだった」と家族に話していたと何年か前に聞きました。でも、今さらその話を追求しても父が帰って来るわけではありませんし。

    理にかなっていた超スパルタ教育

     <12月20日に東京・大田区の池上本門寺で行われた葬儀には、多くのファンだけでなく政財界の名士や有名芸能人、スポーツ選手なども参列した>

    • 父にスパルタ教育を受けたと話す百田(撮影 高梨義之)
      父にスパルタ教育を受けたと話す百田(撮影 高梨義之)

     父が死んでも涙は出ませんでした。小さい時から「男なら泣くな」と言われ続け、感情をグッと押さえつけるくせがついていたのです。後に兄が亡くなったときも涙は出ませんでしたね。

     とにかく、父は怖かった。僕が物心ついた2、3歳のころ、父は大相撲を廃業して、タニマチの人の建設会社で働いていたのです。将来が見えなくてストレスがあったのでしょう。父が一番荒れていた時期で、僕は毎日、父が家に帰って来る時間になると体の震えが止まらなくなり、泣き出すわけですよ。すると、それを見た父がイラッとして「何泣いてるんだ!」って。蹴飛ばされて急な階段を2階から1階まで転げ落ちたこともありましたね。

     プロレスが軌道に乗ってからは、無茶苦茶なことはなくなりましたが、すごいスパルタ教育で、ケンカに負けたり学校の成績が悪かったりすると、すごく怒られました。行儀とか食事のしかたにも厳しかった。父が怒ると、僕や兄は自分でたたかれるものを取りにいくのです。角材はすぐ折れるので、それほど痛くないけど、ハタキはしなってムチのようになるのですごく痛いとか、そういう知識はつきましたね(笑)

     泳ぎ方の覚えさせ方もすごかった。水深2メートル位のプールに放り込まれるのです。バタバタしているうちに沈んでいくと父が助けてくれる。これを繰り返しているうちに、その日のうちに浮くことを覚えました。自転車も「ペダルをこぎ続けないと、ぶんなぐる」と竹ぼうきを持った父に追い掛け回されているうちに1日で乗れるようになりました。理にはかなっていたのです(笑)。

    スキーでけがして父に愛されていると実感

     おかげで精神的にはかなり強くなりました。今では父が僕らのために厳しくしていたのだとわかりますが、当時はただ怖いだけでしたね。そんな父も、だんだん人間が丸くなり、僕が中学に入ってからは「棒を取って来い」ということはなくなって、小言を言うだけになりましたが……。

     父に愛されていると実感したことが1回ありました。僕が小学校4年生くらいのときスキーに行ったのです。でも、スキーもスパルタなので(笑)、まだボーゲンも十分に出来ないのに最上級のコースに連れて行かれ「ここから滑れ」と。仕方ないので滑り始めたのですが、曲がることが出来ず直滑降になっちゃいました。それで、木に激突しそうだったので無理に曲がろうとしたら転倒して、左足を複雑骨折したのです。さすがの父もあわててスキーを脱いで、ゲレンデを穴だらけにしながら助けに来てくれました。

     その晩、父は寝ないで看病してくれて、僕がうなると「大丈夫か、痛いのか」と話しかけてくれたりしました。あのときだけは父の愛情を感じましたね。

     ああいう教育の仕方は、自分にも厳しい、精神力が強い父だからできることだと思います。僕にはとてもできません。中途半端に厳しくするのは子どもにいい影響を与えないと思うので、僕は息子に甘かったですよ、趣味も合わせたりして仲のいい親子になっています(笑)。

     (続く、文中一部敬称略)(聞き手・構成 メディア局編集部 伊東謙治)

    <百田光雄=ももた・みつお>
     1948年、東京都港区出身。173センチ、92キロ。68年に日本プロレス入りし、72年に全日本プロレス旗揚げに参加。長く第一試合を担当し、「6時半の男」として人気を呼ぶ。89年には全日本プロレスの世界ジュニア・ヘビー級王座を獲得し2度防衛。2000年にノアに移籍し、副社長に就任。09年にノアを退団し、フリーのレスラーに。66歳の現在もインディー系団体などのリングに上がっている。父は日本プロレスを創設した力道山。兄・義浩(故人)も全日本プロレスでリングアナやレスラーとして活躍し、息子・力も昨年12月にプロレスデビュー。
    2014年12月08日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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