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    プロレス史に残る事件・出来事の真相に迫ります。

    猪木さんで「人間不信」…坂口征二<3>

    一歩引いてナンバー2に

    • 「猪木さんは憎めないんですよね」(撮影 高梨義之)
      「猪木さんは憎めないんですよね」(撮影 高梨義之)

     新日本に入ったころは、猪木さんに対するライバル意識が強かったね。

     年齢も俺が一つ上だったし。言い合いになって、「この野郎、あの野郎」ってなることもあった。お互い気持ちの中で「負けてたまるか」と思っていて、あれはあれでよかったと思うけど、1~2年して会社もある程度うまくいってきたとき、ある人に「両雄並び立たずじゃないけど、一歩引いて猪木をたててやってくれ」と言われてね。

     俺も言われなくてもわかってたよ。俺が一歩引いて、猪木さんがメイン、俺がサブでやっていけば、うまくいくんじゃないかなって。猪木さんの人柄を見てて、この人と対等にやるのはきついな、と思ってたから(笑)。

     日本プロレスを飛び出してきてしまった以上、またおかしなことになるのは嫌だったから、どうしたら会社がうまくいくんだろう、という気持ちが強かったよね。

     <1973年4月に新日本プロレスに加入した坂口は豪快なファイトでファンを沸かし、アントニオ猪木とともに二枚看板として君臨する。だが、徐々に坂口はエース猪木をサポートするナンバー2という役割が定着。また、実務も引き受けるようになり、リングの外からも会社を支えるようになっていく>

     新日本に入ってしばらくして副社長になったけど、だんだん試合に出るだけじゃなくて、選手の監督とか広報とか渉外の仕事もするようになった。シリーズが終わるとアメリカに行ってフロリダやテキサスを回って、プロモーターと話して「あの選手を送ってくれ」とか交渉して。今のWWEのビンス・マクマホンの親父(おやじ)とも交渉した。息子はまだガキだったよ。今あんな偉そうにしてるけどよ(笑)。

     昔の試合は日本人対外国人だったから、3~4週間のシリーズに10人位は用意しておかなければならない。いいイベントにするには、まずいい外国人選手を呼んでこないといけなかったんだよ。猪木さんはやらなかったね。ほかの仕事が忙しかったから(笑)。

    頭を痛めた猪木のサイドビジネス

     <1980年代前半、異種格闘技戦などでファンの心をつかんだ新日本プロレスは、テレビ視聴率も好調でプロレスブームを巻き起こしていった。その一方で坂口がたびたび頭を痛めていたのが、猪木がブラジルなどで行っていたサイドビジネス。猪木が社長、坂口が副社長を一時解任されるなどの内紛が起き、選手の離脱騒動にまで発展した>

    • 猪木のそばにはいつも坂口の姿があった(1989年6月、参院比例選候補発表の記者会見の席で、撮影=読売新聞東京本社写真部)
      猪木のそばにはいつも坂口の姿があった(1989年6月、参院比例選候補発表の記者会見の席で、撮影=読売新聞東京本社写真部)

     あの人は、プロレスだけでは気が済まない。事業がやりたい。バイオとか水の研究とか、いろんなことをやった。タバスコくらいかな、(もう)かったのは。猪木さんはああいう性格だから、周りがうまい話を持ち込むと、すぐ乗るんだ(笑)。

     あの人は現役時代に、ものすごく稼いでるんだけど、そういうのに、みんな使ってるんです。会社でも「おい、すぐに3000万円用立ててブラジルに送っといてくれ」って。会社への借金は、俺が社長のときに、引退興行とかして退職金を出してあげて相殺したけど。借金してまで、夢を追いかけてるんです。だからおれは、あの人が憎めないんですよ。

     まあ、昔から猪木さんの後始末は俺がやるって感じでね。会社が大変なときに、色々言い合っても「坂口、悪いな」って言ってくれるとね、「ああ、いいすよ、大丈夫ですよ」ってなっちゃう(笑)。サイドビジネスの件でも、「本当に悪いなあ、もうすぐこれ完成するから、そうしたらお前にはちゃんとするから」って(笑)。

     でもね、猪木さんは考えることがすごい。普通の人間では考え付かないことを発想する。そして、うちの会社は猪木さんが旗を振ったら、最初は「えっ」て言うけど、決まったら「わーっ」て一緒になってやるという雰囲気だった。

     モハメド・アリ戦では7億くらい赤字食らって、肩代わりしてくれたテレ朝に猪木さんと俺の代表権を取られたけど、猪木さんは「7億なんて5年で返してやる」って言って、俺も「そうすね」って。それで本当に3年か4年で返した。 

     95年に北朝鮮でプロレスしたときもそう。発表した後、金の回収が難しいかもしれないことがわかって、社内でもやるべきかどうか意見が分かれたけど、結局、「猪木さんの話だからやろう」ということになってね。でも、かなりの赤字が出た。俺が社長やってたときで、そのあとの東京ドームの興行が好調だったから、すぐに取り戻せたけどね。

     猪木さんにとっては、やったということが大事。その裏であったことは別として、やったということが、ちゃんと(経歴として)ついてきてるじゃない。

     <しかし、さすがの坂口も激怒することがあった。83年6月の第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦した猪木はリング下に転落し失神。舌をだらりと出して運ばれていく猪木にファンも関係者も衝撃を受けた。だが、その晩、容体を心配する関係者が気付かないうちに、猪木は病院から姿を消す。坂口は「人間不信」と書いた紙を残し、しばらく会社にあらわれなかったという>

     2~3日ハワイに行ったんだ。あの試合では、俺はセコンドについていたけど、猪木さんの舌がからんだから引っ張って、ゴム草履を口に入れて。みんな心配して救急車で行って。そこまでしてね…そしたら病院からいなくなったっていうからよ、「なにいっ」て思ったよ。ああいうのが、猪木さんすごいんだよ、考えることが。人をだましてでもっていうね。(続く、文中一部敬称略)(聞き手・構成 メディア局編集部 伊東謙治)

    <坂口 征二=さかぐち・せいじ>
     1942年、福岡県久留米市生まれ。196センチ、125キロ。明治大学、旭化成などで柔道選手として活躍し、全日本柔道選手権では65年に優勝、同年の世界選手権で銅メダルを獲得。67年に日本プロレス入りし、ジャイアント馬場と「東京タワーズ」を結成し、1972年にインターナショナル・タッグ王座を獲得。73年4月に新日本プロレスに移り、WWF北米ヘビー級王座やアントニオ猪木などとのコンビでNWA北米タッグ王座などを獲得。89年6月、新日本プロレス社長に就任。90年3月に現役引退。その後、同社の会長、CEOなどを歴任し、現在は相談役。次男の憲二さんは俳優として活躍。
    2014年09月03日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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