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    プロレス史に残る事件・出来事の真相に迫ります。

    いまでも怖い猪木さん…グラン浜田<3>

    メキシコマットで善玉としてデビュー

    • 「プロモーター相手にレスラー言葉で話して失敗しました」(撮影 笠井智大)
      「プロモーター相手にレスラー言葉で話して失敗しました」(撮影 笠井智大)

     (アントニオ)猪木さんは怖かったですね。いまでも怖い。目も合わせられないです。おれとは全然格が違いますから個人的な付き合いはありませんよ。出先で会うとあいさつをするくらい。おれの先生ですね。

     当時、目標としていたのは、おれと同じように体が小さかった星野勘太郎さんと(山本)小鉄さんのヤマハ・ブラザーズでした。当時は体が小さいながらも、がんがんやっていましたから。リングに上がったときの気迫はすごかった。それを見習おうとしたけれど、自分にあれだけに気迫が出せたかどうかはわかりません。

     <デビューから3年、新弟子時代を経て1975年、メキシコに武者修行に出る>

     おれは体が小さかったので、海外修行で行くところはないと思っていました。どうやらメキシコから来ていたレスラーが、おれのことを評価してくれたらしいです。猪木さんと小鉄さんに呼ばれて、「メキシコに行け」と。うれしかったですね。海外修行はレスラーの憧れの的ですから。メキシコまでのオープンの往復航空チケットを渡され、帰国する時期も指示はなし。あとは野となれ山となれ、といった感じでした。

     いまのように情報網が発達していない時代ですから、メキシコのマット界の情報はまったくないし、ルチャリブレも知らない。スペイン語の単語も覚えていないので、会話もできない。そんな状態でいざメキシコシティに着いてみて、まず驚かされたのが、全部がそうというわけではないのですが、ドアのないタクシーが普通に走っているのです。人の数もほんと多い。

     幸いだったのは、向こうのプロモーターが最初の1か月ほど、日本語通訳を付けてくれたこと。ワタナベという商社マンが付いてくれて、それで助かった。ただ、意外と早く話せるようになりました。通訳がいなくなってからは、周りはみんなメキシコ人ですし、ふだん使うプロレス用語はプロレスラーにはなじみが深いですから。

     言葉で失敗したのは1回だけ。レスラー仲間だと、一般の人が使わない汚い言葉をよく使うのです。プロモーターに向かって、その調子で話し始めたら、周りのレスラーから「だめ、だめ」と。それ以来、相手によって話し分けるようにしました。

     メキシコでの初マットは、モントレーというメキシコシティから飛行機で1時間くらいのところでした。メキシコのマットは、リンピオ(善玉、ベビーフェイス)とルード(悪玉、ヒール)とで完全に分かれていて、それまでメキシコで試合をした百田光雄さんや鶴見五郎さんはルードだったのです。ところがおれはリンピオの扱いでした。相手はミドル級のトップレスラー、レネ・グアハルド。ものすごくいい扱いですよ。おれを推薦してくれたメキシコのレスラーから、情報が入っていたようです。そうでないと、最初からそんないい扱いはしてくれない。

     お客さんはすごく熱くて、花道を歩くだけでも「わあ」と歓声があがるし、リング上でジャンプしようものなら大喝采ですよ。日本では考えられないくらいリアクションがいい。ルードだと、ものを投げられたり、小便をかけられたりするのですが、リンピオだとまったくそういうことはありません。

    1日5試合で大稼ぎするもペソが暴落

    • メキシコ時代のグラン浜田(本人提供)
      メキシコ時代のグラン浜田(本人提供)

     前座から急にメインイベンターになったわけですが、そう勝手は違いませんでした。出番が早いか遅いかの違いだけ。ようは、いかに客受けする、プロモーター受けするプロレスをするかどうかなのです。まずは現地のプロレスのスタイルを覚えて、そこに日本で身につけたスタイルを融合させ、いい試合をするということだけ心掛けていました。

     日本でドロップキックくらいは使っていましたが、跳んだり跳ねたりはしていませんでした。そういうことは前座の試合ではご法度で、場外乱闘などしようものなら、張り倒されました。ですから、ルチャリブレのアクロバティックな動きをし始めたのは、メキシコのマットに上がってからです。

     実はおれ、他のレスラーの試合は、ほとんど見ないのです。ただ、メキシコでは、全部の試合を見て、現地のレスラーの動きを学びました。同じ技を使うにしても、自分流にアレンジして使えるよう、いろいろ頭を働かせました。

     トップロープを使った跳び技なども見よう見まねでした。レスリング道場のようなところがあって、そこにあるマットを使って練習するのですが、練習とはいえトップロープから飛び降りるのには度胸がいりますよ。いかに肝っ玉が据わっているか。若さゆえ、という面もありましたね。

     当時のメキシコマットは新興のUWA全盛の時代で、フィッシュマン、レイ・メンドーサ、ドクトル・ワグナーなど、そうそうたるレスラーが活躍していました。最初の1、2年はだいたい年間300試合、そのあとは360試合くらいしましたね。1日で5試合したこともあります。

     日曜日には、プロレスの興行がいっぱい行われるので、それをはしごするわけです。試合がすんだら、着替えもせず、上着を着てタイツのままで車で移動して、次の試合会場に向かう。ウィークデーにも試合はありますが、日曜は客の入りが違うので、ギャラが倍になる。もううはうはですよ。

     ですから、メキシコ時代は随分稼がせてもらいました。ところが、ちょうどおれがメキシコにいる間に(現地通貨の)ペソの価値が暴落したのです。ドルや円に交換すると大損する。現地で使う分には損はないので、それでばんばん使ったものです。

     (続く、文中一部敬称略)(聞き手・構成 メディア局編集部 二居隆司)

    <グラン浜田=ぐらん・はまだ>
      1950年、群馬県前橋市出身。本名、濱田廣秋。167センチ、90キロ。72年、新日本プロレス入団。同プロレスの旗揚げシリーズ中の同年3月16日、対藤波辰巳戦でデビュー。75年、メキシコに海外修行。UWAでリンピオ(善玉、ベビーフェイス)として活躍し、同団体のウェルター級、ミドル級、ジュニアヘビー級、ライトヘビー級の各シングルベルトを獲得し、4冠制覇。長州力とのコンビで同タッグベルトも獲得。79年2月に凱旋帰国。以後、約20年にわたり、日本とメキシコのマットを往復し活躍。84年、第1次UWFに参戦するも、すぐに離脱。同年、全日本プロレスに移籍。90年、ユニバーサル・プロレスの旗揚げに参加。95年日本に帰国、みちのくプロレスに入団。現在はフリーの立場で、リングに上がっている。娘の浜田文子も女子プロレスラーとして活躍中。
    2015年06月24日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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