尾崎行雄「人生の本舞台は常に将来に在り」

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失意の底からの復活

人生の本舞台は常に将来に在り(尾崎行雄の言葉)

夕日を背にして立つ尾崎咢堂記念館。お伊勢参りの人々は、手前を流れる宮川の渡し場から伊勢神宮の神域に入った(三重県伊勢市で)
夕日を背にして立つ尾崎咢堂記念館。お伊勢参りの人々は、手前を流れる宮川の渡し場から伊勢神宮の神域に入った(三重県伊勢市で)

 現在の成功に満足してしまえばさらに大きな仕事はできない。今はどんな苦境にあろうとも、貴重な試練と思えば前に進める――ということだろう。「人生の本舞台は常に将来に在り」。その言葉は慢心する者を戒め、失意の中にある者を奮い立たせる。

 1890年(明治23年)の第1回総選挙から連続25回当選、1953年(昭和28年)まで63年間も衆院議員を務めた尾崎行雄。号は「咢堂がくどう」。晩年94歳になってもなお、震える筆で「人生の本舞台は――」としたためた。その書は、国会議事堂の前に立つ憲政記念館に掲げられている。

 尾崎が「議会政治の父」「憲政の神様」と呼ばれるのは、記録的な当選回数と在任期間の長さゆえではない。藩閥や軍部など、議会をないがしろにする勢力と常に対決してきたからだ。

 それは、どんな弾圧を受けても尾崎を衆議院に送り出してくれる強固な地盤があってこそできたことだった。

 選挙区は三重県南部、中心は現在の伊勢市である。父が官吏として赴任したため、少年尾崎は、伊勢神宮ゆかりの学校であり、英語など新たな学問も教える「豊宮崎とよみやざき文庫」で学んだ。

 その時に自由民権思想に触れて衝撃を受ける。伊勢で尾崎は政治に目覚めた。

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 市内を流れる宮川のほとりに、尾崎咢堂記念館が桜並木を見守るように立っている。

 「日本中を相手に政治の理想を説く尾崎は、伊勢の誇りだった。落選させるわけにはいかない、と皆が手弁当で応援したんです」と奥本謙造館長(69)は語る。

 昭和の初め、尾崎は盟友の犬養毅を5・15事件で暗殺され、療養中の夫人も亡くした。自身も病床に伏して打ちひしがれていた時、まるで天啓のように「人生の本舞台は――」の言葉が頭に浮かんだという。軍部の台頭に無力感を抱いていた尾崎は、闘志を取り戻していく。

 自らがまず、この箴言しんげんによって失意の底から復活したのである。70代なかばのことだった。(文・保高芳昭 写真・吉岡毅)

尾崎行雄
 1858年(安政5年)~1954年(昭和29年)。神奈川県相模原市に生まれ、父の赴任で伊勢に移った。15歳の時に上京して慶応義塾の門をたたく。福沢諭吉の推薦により20歳で新潟新聞の主筆に。第1回の衆院選に31歳で当選して以来、94歳までずっと衆院議員の座にあった。1903年(明治36年)から9年間は、請われて東京市長も兼務した。号は当初「学堂」と名乗り、「 がく 堂」「咢堂」「卒翁」などと変えたが、一般に咢堂で定着している。難民救援活動に取り組んだ相馬雪香は尾崎の三女。

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7103 0 2018/02/13 09:00:00 2018/02/13 09:00:00 夕日を背にシルエットで浮かぶ尾崎萼堂記念館(中央上)。お伊勢参りの人々はかつて、手前を流れる宮川の渡し場から神域に入った(三重県伊勢市で) https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180209-OYT8I50034-1.jpg?type=thumbnail

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