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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    内山完造「私の歴史は私以外には…」

    はるかな大陸の記憶

    私の歴史は私以外には持つ人は無いと云うただこの一つのことによって
    私は書かねばならんと云う勇気を得たのである。(内山完造「花甲録(かこうろく)」(1960年))

    • 古書店街で知られる神田神保町。古本で路地の壁一面が埋め尽くされた場所も(東京都千代田区神田神保町で)
      古書店街で知られる神田神保町。古本で路地の壁一面が埋め尽くされた場所も(東京都千代田区神田神保町で)

     本の街、東京・神田神保町の主な通りの一つ、すずらん通りに店舗を構える「内山書店」は、中国関係の書籍を扱う専門店。店長の内山しんさん(45)は、内山完造の15歳下の弟、嘉吉かきつの孫だ。「完造はいつもニコニコしていて、おおらかな人だったと聞いています」と話す。

     内山書店の歴史は、大陸で一旗揚げようと、28歳で中国・上海に渡った完造が、1917年、現地の自宅の玄関先で小さな本屋を開いたことに始まる。当時「大学目薬」で知られる参天堂(現参天製薬)の上海出張員として中国各地を飛び回って留守がちだった完造を待つ間、妻の美喜が内職代わりにキリスト教関係の本を細々と売り始めたのだった。

     銀行や商社に勤める在留日本人に求められ一般書籍を扱い出すと、日本への留学経験のある魯迅ろじん郭沫若かくまつじゃくなど中国の知識人が集まるようになり、日本からも吉野作造や谷崎潤一郎らが訪れた。31年に満州事変が勃発し、日中関係が冬の時代であったにもかかわらず、お茶を飲みながら自由に語り合える文化交流サロンとしてにぎわった。

    • 動画は写真をクリック
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     美術教師だった嘉吉は上海に来遊した際、魯迅の要請で版画講習会を開催、その縁で、35年、東京・世田谷に「中国を知る書店」として東京内山書店を開店、2年後に神田に移転して現在に至る。

     中国と中国人をこよなく愛した完造だったが、45年、還暦の年に敗戦を迎え、上海の内山書店は閉鎖、2年して強制帰国させられる。

     自伝「花甲録」を書き上げたのは、50年12月30日。中国では、還暦を迎えると自らの足跡をつづり、この世に生きた証しを周囲や後世の人に伝える義務があるとされていて、完造も、「私の歴史は私以外には持つ人は無いと云うただこの一つのこと」を支えに、筆をとる決心をする。書名は、中国語で還暦を意味する「年登花甲」に由来する。書きためていた日記の類いは持ち帰ることができなかったので、記憶をたどりながらの作業だった。悠久の大地に生きる人々の活力に少しずつ魅了されていく完造の、深い「中国人愛」があふれている。(文・永峰好美 写真・佐々木紀明)

    内山完造
     1885~1959年。岡山県出身。13年、中国・上海に渡り、17年、内山書店を開店、日中文化人の交流サロンとして発展させる。敗戦後の47年に日本に強制送還され、弟の嘉吉が開いた東京の内山書店に身を寄せつつ、中国での経験を講演して歩いた。50年、日中友好協会を設立、初代理事長に就任。残留日本人の引き揚げに尽力した。59年、病気療養中の北京で死去。「花甲録」は、内山が自身の誕生から還暦までの記録を時代と重ねながらつづった自伝。東洋文庫で読める。

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    2018年02月19日 09時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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