松平春嶽「我に才略無く我に奇無し」

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耳を傾け先を見る才

我に才略無く我に奇無し。
常に衆言を聴きてよろしき所に従ふ。(松平春嶽(しゅんがく)の言葉)

松平春嶽が名付けた名勝養浩館庭園。池には周囲の風景が見事に映し出される(福井市で)
松平春嶽が名付けた名勝養浩館庭園。池には周囲の風景が見事に映し出される(福井市で)

 春嶽と按摩あんまのような名をつけて上をんだり下を揉んだり

 福井藩16代藩主松平慶永よしなが(春嶽)を皮肉った幕末の狂歌だ。

 徳川将軍家の親族である御三卿ごさんきょうの田安家に生まれ、将軍家に連なる親藩、福井藩の養子に迎えられた。土佐の山内豊信とよしげ(容堂)、薩摩の島津斉彬なりあきら、宇和島の伊達宗城むねなりと並び、幕末の四賢侯と呼ばれた。一方で優柔不断との評もつきまとう。攘夷じょういか開国かの国論統一を図ろうとした藩を挙げての上京は、直前で取りやめてしまう。

 幕末から維新にかけての政治の舞台で、春嶽はどのような役割を果たしたのだろう。福井市立郷土歴史博物館学芸員の田中伸卓のぶたかさん(45)は「話し合いで物事を決める『公議論』を強く打ち出し、明治新政府への流れに道筋をつけた」とみる。こうした春嶽の姿勢は、漢詩に残した言葉からも明らかだ。

 我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ。

動画は写真をクリック
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 「才知に富んだはかりごとも奇抜な考えもない」と自らを称する春嶽だが、様々な局面で意見を求められ、頼りにされた。幕政改革では新設の政事総裁職に請われる。坂本龍馬とは「私政」に代わる「公共の政」が難局打開の最善策だとの認識を共にする。大久保利通は第2次長州征討回避に向けた協力を求めた。「常に周りの意見をよく聴いて、良い方向を見いだすまでだ」という春嶽だからこそ、頼りにされたのだろう。

 様々な勢力の間に入った難しい調整は日和見とも言われた。最後の将軍徳川慶喜よしのぶを擁護し続けたが、結果として新政府樹立への歯車を回してしまう。

 福井城址じょうしの北には、江戸時代初期から中期にかけて造られた養浩館ようこうかん庭園が広がる。春嶽が、おおらかな心持ちを育むことを意味する孟子の言葉「浩然こうぜんの気を養う」から名付けた。城下を流れる水路を引き込んだ池の水面はあくまで穏やかで、目の前の景色を鮮やかに映し出す。公議の流れに耳を傾け続けた春嶽には、幕末動乱の行く末も、くっきりと思い浮かんでいたのだろう。

(文・渡辺嘉久 写真・吉岡毅)

松平春嶽
 1828年(文政11年)~90年(明治23年)。書家、文人としても多くの作品を残し、幕末の藩主の中でも漢詩人として高く評価されている。名言は春嶽が作った七言絶句の前半部分。全文は「我無才略我無奇(我に才略無く我に奇無し)常聴衆言従所宜(常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ)人事渾如天道妙(人事 すべ て天道の たえごと し)風雷晴雨豫難期(風雷晴雨 あらかじ め期し難し)」。春嶽の人柄を伝える秀作とされ、福井市立郷土歴史博物館が詩幅を所蔵する。

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9274 0 2018/02/26 09:30:00 2018/02/26 09:30:00 福井藩主・松平家の別邸跡の養浩館庭園。一部が凍りついた池に青空と養浩館が映る(福井市で) https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180222-OYT8I50032-1.jpg?type=thumbnail

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