48年のフライト人生を締めくくった 秋田芳男さん 68(北名古屋市)
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◇安全な空路真摯に操縦
68歳の誕生日を翌日に控えた今月2日、県営名古屋空港の駐機場。熊本へのフライトを待つフジドリームエアラインズ(FDA)機の前で、職場の仲間らが花束と拍手で送り出してくれた。とんぼ返りで名古屋に戻ると、夕刻には花巻へ。妻、君子さん(66)と義理の母、豊島安江さん(92)も搭乗し、折り返しの花巻18時50分発名古屋行き358便で、48年にわたるフライト人生を締めくくった。
「ラストフライトに特別な思いはなかったが、濃尾平野にさしかかると、見慣れたはずの名古屋の夜景がいつもより美しく感じた」
国土交通省はパイロットの年齢制限を67歳と定めている。生涯飛行時間は国内の民間航空会社のパイロットとして、最長級の2万7255時間。総着陸回数も1万3565回に達した。「飛び慣れた路線でも、一便一便のフライトは全て違う。その日のフライトごとに真剣に向き合ってきた」と振り返る。
大阪市平野区に生まれ、幼い頃から飛行機が大好きだった。1971年9月、当時の東亜国内航空(TDA)に訓練生として採用されて入社した。小さなプロペラ機から大きなジェット機まで様々な機体を操り、日本国内を飛び回った。「航空機メーカーによりハンドリングの違いなどはあるが、3次元を翼で飛ぶということは共通なので、戸惑ったことはなかった」と笑う。
副操縦士時代に、雪で視界が遮られた帯広空港に着陸することがあった。機長が飛行中の機体の体勢を見失って適切な操縦が出来なくなり、「私がやります」と、ほぼ強制的に操縦を引き継いだ。「事故を防ぐには仕方がなかったとはいえ、プライドを傷つけてしまったかもしれない」と表情を曇らせる。
TDAが日本エアシステム(JAS)へと社名変更した後、日本航空(JAL)と経営統合すると、国際線も担当した。「行き先がどこであれ、ただひたすら、目の前のフライトに
2010年4月、FDAに入社すると、再び国内のローカル路線を飛び回った。「国内の小さな空港は、設備の整っていないところも多く、パイロットの技量が問われる。大型機とは違った緊張感がある」と話す。
FDA入社に伴い、県営名古屋空港に近い北名古屋市のアパートに移り、単身赴任はまもなく10年目。兵庫県西宮市の自宅に戻るのは月に1回程度という。
今後は、地上で後進の育成に努める。「プロのパイロットに一番持っていてほしい要素は、物事を客観的に眺める目と、自分を律する強さだ」と力強く語った。(原田展)
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1951年1月生まれ。これまで、機長としてYS―11、DC―9、B777、ボンバルディアDash8―Q400、E170などの操縦かんを握った。現役機長を退いたが、取締役運航乗員部長の職を続けている。限定審査操縦士としてシミュレーターによる副操縦士の技能審査も担当している。
子どもは1女2男。次男は、JALグループの「ジェイエア」で副操縦士を務めている。