「姐さん」若手と共演も

《6》 川反芸者 復活の舞

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昨年10月の「秋の踊り」で見せた「若勇」さん(手前)と染龍さんの共演
昨年10月の「秋の踊り」で見せた「若勇」さん(手前)と染龍さんの共演
あきた舞妓たちに稽古をつける浅利さん(左から2人目)
あきた舞妓たちに稽古をつける浅利さん(左から2人目)

 平成に入り、一度は廃れた「花街」の文化が復活を遂げた。きっかけは、1通の手紙から始まった女同士の交流だった。

 秋田市の歓楽街・川反を明治から昭和にかけて彩った「川反芸者」。そのOGで、「若勇わかゆう」の芸名で活躍した浅利京子さん(76)がその手紙を受け取ったのは昨年1月だった。香でたきしめた封筒の中から取り出した便箋に「よそから来て、芸者を始めることを、ご了承ください」としたためられていた。

 差出人は、男鹿市出身で県内の高校を卒業後に7年間、「東京六花街」の一つ向島で芸を磨いた染龍そめりゅうさん(29)。2017年(平成29年)秋、秋田市内で置き屋「寿美谷すみたに」を構え、川反芸者の再興を目指して活動を始めた。

 年長者を敬う律義な姿勢に胸を打たれた浅利さんは「川反の看板を意識して、頑張ってください」との返事を送り、そこから川反流の作法や、川反芸者に伝わる小唄「酒の秋田」などを教えるようになった。染龍さんは大先輩の浅利さんのことを「ねえさん」と慕った。

 1886年(明治19年)の「俵屋火事」で川沿いに立ち並んだ倉庫群が焼失。その跡に料亭や飲み屋、一杯飯屋などが軒を連ね、花街・川反が形成された。昭和戦前には芸者衆が200人を数える隆盛を誇った。戦後も高度成長期をピークに続いたが、バブル崩壊で1992年(平成4年)、芸者を取り次ぐ「検番」が廃止され、秋田の“お座敷文化”の灯は、ここで一度消えた。

 「お座敷は、政財界の社交場。芸者たちは、立派な人たちから生き方を学んだものだった」。浅利さんは染龍さんに指導しながら、往時を思い出していた。

 そんな時、秋田市の千秋公園内の旧料亭「松下」を使い、花柳界の再興を目指す動きも具体化していた。同市で5年前に創業した舞妓まいこ事業会社「せん」が昨年4月、松下を舞台に所属する「あきた舞妓」たちと気軽にお座敷遊びを楽しめる定期公演を始めた。この動きに、染龍さんも同調。せんの舞妓たちと一緒に稽古を行うようになり、昨夏からは、浅利さんの指導を仰ぐことになった。

 同じ頃、県内の経済人らが「秋田川反芸妓を応援する会」を発足、あきた舞妓と染龍さんの支援に乗り出した。10月には稽古の成果をお披露目するイベント「秋の踊り」が、秋田市内のホテルで行われ、染龍さんと「若勇」さんの共演も行われた。

 お客さんと密会する「待合」をせず、お座敷での小唄や踊りで勝負することを本分とし、ひたすら芸事の腕前を磨いたのが川反芸者だった。浅利さんは「『川反芸者の魂』を伝えたい」と、若い担い手たちにエールを送る。

 「東京とも京都とも違う芸が、川反にはある。新しい花柳界をつくるのではなく、姐さんから学んだことを引き継ぎたい」と染龍さん。“土地の芸”が時代を超えてつながった。

(大塚健太郎)(おわり)

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61515 0 次代へ 2019/01/09 05:00:00 2019/01/09 05:00:00 「秋の踊り」で共演を果たした染龍さん(左)と若勇さん(10月25日午後8時14分、秋田市中通で)=大塚健太郎撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190109-OYTAI50004-T.jpg?type=thumbnail

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