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    反対派農家 選んだ共存 移転後も有機続け直売に

    • さくらの山に立ち、離陸する航空機を見つめる堀越さん。「空の駅 さくら館」のガラスに機体が映り込む(12月16日午前、成田市駒井野の「成田市さくらの山」で)
      さくらの山に立ち、離陸する航空機を見つめる堀越さん。「空の駅 さくら館」のガラスに機体が映り込む(12月16日午前、成田市駒井野の「成田市さくらの山」で)
    • 空港反対を訴えて成田市内を行進する人たち(1970年頃撮影、「成田空港空と大地の歴史館」提供)
      空港反対を訴えて成田市内を行進する人たち(1970年頃撮影、「成田空港空と大地の歴史館」提供)

     12月の朝、成田市大清水の農業、堀越一仁さん(59)は、成田空港のA滑走路を望む高台の公園「成田市さくらの山」に、みかん箱ほどの大きさのコンテナ2個を運び込んだ。丹精して育てた小松菜とサツマイモがぎっしり。さくらの山の管理企業組合理事長として連日、園内の観光物産館「空の駅 さくら館」を訪れている。

     公園には桜約240本が並び、春には飛行機との競演が楽しめる。空港の街ならではの名所だ。「色んな人が飛行機を見に来て、成田のものを買ってくれたら最高だな」。眼下の空港を穏やかな表情で見つめた。

     成田市東峰の農家の生まれ。10歳の頃、新東京国際空港の建設が閣議で決まった。国から事前の相談はなく、反対運動が燃え上がった。東峰も用地に含まれ、父、昭平さん(86)は土地の売却を拒否し、三里塚芝山連合空港反対同盟に加わった。

     堀越さんは少年行動隊に入り、人の排せつ物を袋に詰めた「黄金爆弾」を作ったり、大人たちが掘った地下ごうに立てこもったりした。反対同盟のとりでが強制撤去された1971年の代執行では、少年ながらも立ち木にしがみついて抵抗した。機動隊に引き離され、田んぼに投げ込まれたが、何度も駆け戻って抵抗を続けた。

     「悪いことをしてるんでも、主義主張を貫いてるんでもない。自分の土地で生活したいだけ。子供心にも不条理はわかるんだ」

     昭平さんは73年、反対派の仲間と「三里塚微生物農法の会」を結成。堆肥を作って有機農法に取り組み、野菜を消費者に直接届ける産直も始めた。目的は反対運動の資金づくりだった。

     闘争を巡る一つの転機は91~93年、反対同盟熱田派と国が初めて対話に臨んだ「成田空港問題シンポジウム」。この席で運輸大臣は、手法の誤りを認めて謝罪した。堀越さんは「反対の大義がなくなった」と思った。空港の旅客は増え続け、97年には累計3億人を突破した。「地域のための反対だったが、地域のためになることも変わった」と感じ、99年に移転を決意した。

     反対運動をやめ、市内に新たな自宅と畑を得て、有機農業は続けた。闘争のための農法は進化し、「成田は有機の先進地」と言われるまでになっていた。

     新東京国際空港公団と市は2000年、騒音の影響が大きい緑地約2・9ヘクタールを活用し、さくらの山を開園。堀越さんら地元住民が市に要望し、08年、プレハブの地元産品直売所が開業した。野菜や煎餅、まんじゅうの販売は好調で、15年3月には観光情報コーナーも備えたさくら館がオープンする。堀越さんは「普通の人の何十倍も空港に関わってきたから考えられること、できることがある」との思いで、地域の農家や社会福祉法人と共に、さくらの山の管理企業組合を結成した。組合員には、自分と同じ元反対派農家もいた。

     直売所の野菜は、生産者の名前を袋に表示している。「移転農家は、皆が空港に賛成したわけではない。農業を諦めた人も多い」と思っている。さくら館に出品してくれる農家だって、空港の街で農業を続けることに必死なはず。だから力になりたい。「ここで農業をやりたい人がこんなに多いんだ、と感じてほしい。彼らの思いも発信できる場にしたいね」と夢を描く。

    2016年01月01日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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