黄金時代 支えた「聖地」

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県野球場の正面で、高校野球への思いを語る川崎さん
県野球場の正面で、高校野球への思いを語る川崎さん

 県内高校球児の「聖地」といわれた千葉市稲毛区天台町の県野球場は長年、「天台」の愛称で親しまれてきた。その舞台で、夏の県大会最後の決勝となったのは、1989年7月31日の成東―拓大紅陵戦だった。

 内野から外野まで隙間なく埋まった3万近い観客。息詰まる投手戦は、成東の1点リードで迎えた九回、拓大紅陵の三振で幕切れとなり、観客席からは大きな拍手が送られた。

 翌年、夏の決勝戦は千葉マリンスタジアム(当時)に移った。

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 「天台」が完成したのは68年。73年の若潮国体に備えて作られた。完成の前年には習志野が夏の全国制覇を果たしたことで県内の野球熱が高まり、工事中から注目された。

 完成直後に足を踏み入れた時のことを、当時の県高野連役員、森川やわらさん(77)は今も忘れない。内野席には、大きくせり上がったスタンドがそびえていた。「その威容に圧倒された」

 当時、多くの球場は客席が平らで、甲子園のように階段状のスタンド席を持つ球場は珍しかった。森川さんにはこの年を機に、県大会を突破して夢舞台で戦う千葉の球児たちが堂々としているように見えた。「県大会で似た形の球場を経験していたからかもしれない」

 74、75年には県勢が夏の甲子園を連覇し、千葉の高校野球は黄金時代を迎える。銚子商、習志野、千葉商、成東――。強豪が激突する日は外野の芝生が見えないほどの観客が詰めかけ、数々の名勝負が生まれた。

 当時の選手名板は金属製で、回転式の手書きだった。高野連の役員が交代で顔料で名前を書く。「遠くからも見えるように、たとえ字が下手でも、板いっぱいに大きく書いた」と森川さん。試合後は水で顔料を落とし、次の日に備えて乾かした。

 誰よりも長く天台に携わってきた森川さんは振り返る。「天台はまさに『千葉の甲子園』だった」

 決勝の舞台が千葉マリンに移った90年、「天台で見たい」と惜しむ声も上がった。だが、客席や駐車場の不足が決め手になった。

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 「球児たちの聖地に携わる誇りを持っている」。2009年からグラウンドを整備してきた川崎賢一さん(47)も、強い思い入れを抱く一人。年間を通して芝や土の状態を保つのが仕事だ。

 内野の土は福島県から良質の土を仕入れている。4人のスタッフを束ね、試合の朝には石灰でラインを引く。天候によって水をまく量も調節。試合後は、2時間ほどかけて芝目を整える。どれも球児に最高のプレーをしてほしいからだ。「彼らに負けないよう、情熱を注いでいます」

 ちょうど50年の節目を迎え、老朽化も目立ってきた天台は、この夏大会で使用された後、8月から大規模な改修工事に入る。グラウンドを広げ、スコアボードもLED表示に変わる。

 完成予定は2020年1月。2年後の夏、再び球児の声がこだまするのを、多くの人が待ち望んでいる。

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31633 0 夏の球譜 高校野球100回大会 2018/07/10 05:00:00 2018/07/10 05:00:00 高校野球への思いを語る川崎さん(9日、県野球場で)=貝塚麟太郎撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180710-OYTAI50004-T.jpg?type=thumbnail

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