茂原海軍航空基地周辺の掩体壕(茂原市)

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自宅敷地内に残る掩体壕について説明する日色さん。「あって当たり前の存在」と語る(茂原市東郷で)
自宅敷地内に残る掩体壕について説明する日色さん。「あって当たり前の存在」と語る(茂原市東郷で)
2003年9月に撮影された航空写真。右が日色さん宅で、左が掩体壕(日色さん提供)
2003年9月に撮影された航空写真。右が日色さん宅で、左が掩体壕(日色さん提供)

 JR茂原駅から北東に約1キロ。三井化学茂原分工場の広大な敷地は戦時中、茂原海軍航空基地だった。

 そこからやや離れた家並みの間に、アーチ形でコンクリート製の重厚な構造物が姿を現す。戦闘機や攻撃機をすっぽりと覆い、敵機の攻撃から守るための「掩体壕えんたいごう」だ。おわん形に盛った土の上にコンクリートを流し、固まると中の土を取り除く。上空から見つけにくくするため、上部を樹木で覆い、周囲と同化させた。

 茂原市東郷の会社員、日色ひしき竹敏さん(68)方の敷地には、幅30・5メートル、奥行き13・8メートル、高さ6・6メートルの掩体壕が残り、今は駐車場や物置として使っている。同基地から飛び立った戦闘機が、来襲した米英軍機と交戦したという記録もあり、日色さんは「ここで空中戦があったのか……」と空を見上げた。

          ◎

 市教委がまとめた「掩体壕が語る茂原の歴史」(2007年)によると、掩体壕は全国四十数か所に100基ほど残っていた。このうち全国最多の10基が今も茂原市にある。九十九里浜が米軍の上陸地と想定され、同基地が防衛拠点としての役割も担っていたためだ。

 市は戦後50年を記念して1995年に1基を所有者から借り受けて一般公開しているものの、10基は全て民有地にあるため保存や管理が懸念されている。

 2年前には土地造成を目的に、別の1基が取り壊された。「手を打たないと、いずれ全部なくなってしまう」。防衛庁(現防衛省)の防衛研究所で戦史部事務官を務め、定年後も掩体壕の調査を続けてきた同市の長内誠一さん(81)は警鐘を鳴らす。

          ◎

 長内さんによると、同基地の造成が始まる前、民間の国際空港を開設する構想があったという。周辺自治体も盛り上がり、34年11月30日付の読売新聞千葉版には「国際空港は確実」「茂原等三町村が期成同盟会を結成」の見出しが躍った。

 「五輪開催に向け、当時海外で全盛だった飛行船の就航を目指したのだろう」。長内さんは幻に終わった40年の東京五輪を念頭に、こう推測する。五輪は日中戦争の激化などを理由に中止となり、その後、太平洋戦争に突入したことで結局は海軍の航空基地となった。「国際空港が実現していれば、茂原が日本の空の玄関口になっていたかもしれない」と市教委の担当者は話す。

 長内さんは訴える。「掩体壕であれ、基地であれ、戦史を語る上で茂原が重要な場所だったことを忘れてはならない。遺構を地域資源として残し、活用してほしい」

(羽田和政)

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36053 0 遺構を巡る―戦後73年― 2018/08/08 05:00:00 2018/08/08 05:00:00 「あって当たり前の存在」と日色さん。内部には簡易ハウスが建ち、ガレージにもなっている(茂原市東郷で)=羽田和政撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180808-OYTAI50005-T.jpg?type=thumbnail

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