茂原海軍航空基地周辺の掩体壕(茂原市)
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JR茂原駅から北東に約1キロ。三井化学茂原分工場の広大な敷地は戦時中、茂原海軍航空基地だった。
そこからやや離れた家並みの間に、アーチ形でコンクリート製の重厚な構造物が姿を現す。戦闘機や攻撃機をすっぽりと覆い、敵機の攻撃から守るための「
茂原市東郷の会社員、
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市教委がまとめた「掩体壕が語る茂原の歴史」(2007年)によると、掩体壕は全国四十数か所に100基ほど残っていた。このうち全国最多の10基が今も茂原市にある。九十九里浜が米軍の上陸地と想定され、同基地が防衛拠点としての役割も担っていたためだ。
市は戦後50年を記念して1995年に1基を所有者から借り受けて一般公開しているものの、10基は全て民有地にあるため保存や管理が懸念されている。
2年前には土地造成を目的に、別の1基が取り壊された。「手を打たないと、いずれ全部なくなってしまう」。防衛庁(現防衛省)の防衛研究所で戦史部事務官を務め、定年後も掩体壕の調査を続けてきた同市の長内誠一さん(81)は警鐘を鳴らす。
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長内さんによると、同基地の造成が始まる前、民間の国際空港を開設する構想があったという。周辺自治体も盛り上がり、34年11月30日付の読売新聞千葉版には「国際空港は確実」「茂原等三町村が期成同盟会を結成」の見出しが躍った。
「五輪開催に向け、当時海外で全盛だった飛行船の就航を目指したのだろう」。長内さんは幻に終わった40年の東京五輪を念頭に、こう推測する。五輪は日中戦争の激化などを理由に中止となり、その後、太平洋戦争に突入したことで結局は海軍の航空基地となった。「国際空港が実現していれば、茂原が日本の空の玄関口になっていたかもしれない」と市教委の担当者は話す。
長内さんは訴える。「掩体壕であれ、基地であれ、戦史を語る上で茂原が重要な場所だったことを忘れてはならない。遺構を地域資源として残し、活用してほしい」
(羽田和政)