三里塚記念公園に残る防空壕(成田市)

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防空壕の中央部分にある主室。公園内の三里塚御料牧場記念館で見学を受け付けている(成田市で)
防空壕の中央部分にある主室。公園内の三里塚御料牧場記念館で見学を受け付けている(成田市で)

 「ロウソクを片手に、真っ暗な防空ごうを探検するのが地元の子供たちのはやりだった」

 成田市大清水に住む新島新吾さん(87)は少年時代を振り返る。同市の三里塚記念公園の一角に残されている防空壕のことだ。目の前の成田空港では今、航空機が轟音ごうおんを立てながら次々と離着陸している。

 空港の建設が決まるまで、一帯には宮内庁下総御料牧場が広がっていた。父が馬を育てる仕事をしていた新島さんは牧場で生まれ育ったが、「皇太子さま(現在の天皇陛下)のために造られた」とされる防空壕の存在を知ったのは終戦後だった。

          ◎

 防空壕は真上から見ると「H形」だ。市教委生涯学習課によると、出入り口のほか、爆弾が上空でさく裂した際、圧力を外に逃がすための通気口がそれぞれ2か所設けられている。出入り口を2か所としたのは、どちらかが塞がれても逃げ出せるようにするためだ。

 防空壕の中央には主室(11・25平方メートル)が置かれ、厚さ70センチのコンクリート壁に守られていた。強度は、現在の基準で30階以上の高層ビルに使われる資材に相当し、劣化も進んでいないという。同課の寺内博之さん(61)は「当時の最高の技術と資材を用いた」とみる。

 地下5・2メートルに位置する防空壕は、常時15度前後に保たれていた。新島さんは「畳敷きの部屋も広がっていた。皇太子さまのための防空壕だから、豪華な造りだったのではないか」と話した。

          ◎

 市には関連する公的資料は残されていない。ただ、工事を請け負った建設会社「間組はざまぐみ」(現・安藤ハザマ)が1989年に発行した百年史には「皇太子殿下の防空壕新設」「イザという時の退避施設をつくることになった」と記されている。

 突貫工事だったこともうかがえる。同史によると、完成は太平洋戦争開戦当日の41年12月8日。「1か月ぐらいの施工期間中、地下足袋を脱いで寝るひまもなかった」という記述もある。

 「空襲の際の東宮御避難の時期は早きがよくはないか、未だ三里塚完成せざるやうなるが」。昭和天皇の侍従だった故小倉庫次くらじ氏がしたためた41年11月の日記には、工事の進み具合を案じられる天皇の言葉が残っている。2007年発売の月刊「文芸春秋」4月号に掲載された日記で、寺内さんは「軍は開戦前から本土空襲を想定していたのではないか」と指摘する。

 皇太子さまが当時、防空壕を使われたという記録は見つかっていない。平成時代は日本が戦場になることなく、天皇陛下の退位とともに幕を閉じようとしている。

 「防空壕なんて必要のない平穏な時代であってほしい」。新島さんは新たな時代への願いを込めた。

(小杉千尋)

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36226 0 遺構を巡る―戦後73年― 2018/08/09 05:00:00 2018/08/09 05:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180809-OYTAI50006-T.jpg?type=thumbnail

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