戦時下の面会 優しき宰相

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白川一郎画の「最後の御前会議」(鈴木貫太郎記念館提供)
白川一郎画の「最後の御前会議」(鈴木貫太郎記念館提供)
鈴木貫太郎(鈴木貫太郎記念館提供)
鈴木貫太郎(鈴木貫太郎記念館提供)

 1945年6月下旬。東京・丸山町(現文京区)の鈴木の私邸応接室で、男女4人が和服姿の鈴木と妻タカと向き合っていた。4人は千葉・関宿町(現野田市)の青年団員。4月に史上最年長の77歳で首相に就いた鈴木に、「少しでもお役に立ちたい」と集落で供出した野菜を届けに訪れたのだ。

 当時19歳で最年少だった野中鉚市りゅういち(92)はソファから身を乗り出し、初対面の鈴木に上ずった声で告げた。「私ももうすぐ兵隊に行きます」。鈴木は葉巻をくゆらせながら言った。「そうですか。くれぐれも体を大切にするんですよ」。優しい目だった。

 鈴木内閣が発足したのは、戦艦大和が米軍機に撃沈された4月7日。東京は3月の大空襲と続く5月の空襲で焼け野原になり、鈴木の私邸周辺も焼けた。

 緊迫した情勢下、とても面会はかなわないと思っていたのに、気さくに応じてくれた鈴木に野中たちは感激した。「これからもお届けにあがろう」。4人はそう決めたが、私邸訪問はこれっきりになった。

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戦後直後の写真を前に、鈴木との思い出を語る野中さん(野田市で)
戦後直後の写真を前に、鈴木との思い出を語る野中さん(野田市で)

 関宿の野中家と鈴木の実家は同じ通り沿い。野中は幼い頃から「鈴木さんは海軍の偉い人」と聞かされて育ち、侍従長として仕えた昭和天皇から国のかじ取り役を託された鈴木を誇りに思っていた。

 野中が陸軍2等兵として、米軍上陸に備えて勝浦の海岸に派遣されたのは、米国が広島、長崎に原爆を投下し、旧ソ連が日本へ宣戦布告して間もない8月11日のことだった。

 自らの身を潜めて敵を迎え撃つ「タコツボごう」を掘るよう上官に命じられた。物資はとっくに底を尽き、銃器は持たされなかったが、特攻で散った旧制中学の同級生の顔が浮かび、「自分も名誉ある死を」と決心した。

 この頃、政府ではポツダム宣言の受諾による降伏の意見が強まっていた。皇居内の地下防空ごうで行われた8月10日の御前会議。鈴木は陸軍の強硬な反対を押し切って天皇に聖断を仰ぎ、ポツダム宣言受諾の方針が決まった。陛下のお言葉は、野中の赴く外房の防備の遅れにも触れていた。

 14日午前の最後の御前会議で再び聖断が下ると、陸軍の徹底抗戦派が暴徒と化した。翌15日未明、鈴木の私邸は襲撃され、屋敷は焼き払われたものの、鈴木は間一髪で脱出。正午の玉音放送を待って総辞職した。

 野中は壕掘りに夢中で玉音放送は聞いていない。ただ、将校たちが狂ったように軍刀を振り回していた光景が記憶にある。

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 野中が帰郷したのは9月1日。関宿の川の匂いでようやくほっとすると、6月に見た鈴木のあの目を思い出した。その鈴木は翌46年夏、野中たちを実家に招き、関宿の戦後復興の道しるべを示した。キーワードは「酪農」だった。(敬称略)

鈴木貫太郎 鈴木貫太郎記念館(野田市)などによると、幕末の慶応3年、関宿藩士の長男として藩の領地だった現在の大阪府堺市で誕生。1872年に関宿へ。海軍兵学校卒業後、日清、日露戦争に従軍し、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などを歴任。昭和天皇の侍従長だった1936年の2・26事件で襲撃されたが一命を取りとめた。45年4月に首相就任。戦後は2度目の枢密院議長を務めた。48年4月、関宿町で死去。息を引き取る直前、「永遠の平和」と2度繰り返したという。

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37273 0 永遠の平和 鈴木貫太郎没後70年 2018/08/17 05:00:00 2018/08/17 05:00:00  白川一郎画伯の「最後の御前会議」(=野田市鈴木貫太郎記念館提供) https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180817-OYTAI50005-T.jpg?type=thumbnail

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