郷土復興託した酪農 脈々

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ステッキを手に関宿を散歩する鈴木(鈴木貫太郎記念館提供)
ステッキを手に関宿を散歩する鈴木(鈴木貫太郎記念館提供)
「貫太郎さんが残した遺産を受け継いでいきたい」と話す知久さん(野田市で)
「貫太郎さんが残した遺産を受け継いでいきたい」と話す知久さん(野田市で)

 利根川と江戸川の分岐点、県最北端に位置する旧関宿町(現野田市)。玉音放送があった1945年8月15日、東京の私邸を焼き払われた鈴木貫太郎は親族の家を転々とした末、11月下旬に帰郷した。ステッキをついた大柄な老人が川辺を散歩する姿を地元の古老たちはよく覚えている。

 野中鉚市りゅういち(92)もその一人。出征直前、首相だった鈴木からいたわりの言葉をかけられた野中が近所の長老ら約20人と鈴木の実家に招かれたのは、終戦翌年の夏だった。鈴木は大広間でよく通る声で呼びかけた。「みなさんで関宿の農業を盛り上げましょう」

 かつて水路の要衝として栄えた城下町・関宿は、陸上交通の時代の到来で寂れる一方だった。郷土の復興を願う目の前の老人の言葉に、当時20歳だった野中は心を熱くした。大広間はその後、地元の農家たちでつくる勉強会「農事研究会」に開放され、野中も通うようになる。そこで鈴木が提案したのが酪農だった。

          ◎

 関宿の川べりは鈴木の幼い頃から一変し、長大な堤防が続いていた。河川改修で田畑を供出した農家は耕作面積が狭くなり、減収に悩んでいた。

 海軍時代、酪農が盛んな欧州を視察した鈴木は、乳牛を飼う関宿の小さな農家に着目した。県内で酪農が広まりつつあった頃。長男のはじめが旧農林省の官僚だったことにも後押しされ、堤防一帯を牧草地として利用し、関宿でも普及させればいいと考えた。

 大広間の農事研究会では専門家が講義した。妻タカは「あなたたちは私の子供」と野中ら若者をかわいがり、手料理を振る舞った。当初は戸惑っていた農家も「現金収入になる」と理解を示すようになり、野中も兼業農家として牛と暮らしていくことになった。

 種は鈴木が48年4月に死去した後に花開く。牧草地は年々広がっていった。最盛期は60年代。200軒ほどの酪農家が約2000頭の乳牛を育て、川辺の牧草地としては全国有数の規模となった。

 鈴木の実家横には63年に鈴木貫太郎記念館が建てられ、晩年を過ごした住まいは既にない。だが、地域でとれた生乳を出荷前に貯蔵しておくため、敷地内に54年に完成した「集乳所」が残る。関宿の酪農のシンボルとして今も稼働中だ。

 旧関宿町地域の酪農家は現在22軒。その中で最多の約180頭の乳牛を育てる「知久牧場」の事務所には鈴木の写真が掲げられている。3代目の知久ちく将太(24)の祖父が、関宿の復興に貢献した鈴木を敬って飾った1枚だ。

 「貫太郎さんのおかげで僕らの今がある。地域の酪農をしっかり守っていきたい」。写真を前に、知久は力を込めた。

(敬称略)

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37439 0 永遠の平和 鈴木貫太郎没後70年 2018/08/19 05:00:00 2018/08/19 05:00:00  ステッキを持って散歩する鈴木貫太郎(野田市関宿台帳の光岳寺で)=市鈴木貫太郎記念館提供) https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180820-OYTAI50002-T.jpg?type=thumbnail

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