陛下から絶大な信頼

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自宅でくつろぐ鈴木とタカ(鈴木貫太郎記念館提供)
自宅でくつろぐ鈴木とタカ(鈴木貫太郎記念館提供)

 「生きている間に別れを言いたいと思って、『とどめだけは、どうか待ってください』と言った……」

 昭和天皇の侍従長だった鈴木貫太郎は1936年の2・26事件で4発の銃弾を浴びた。その時を証言した妻タカの肉声がいま、野田市の記念館で流されている。タカの体を張った懇願で将校はとどめを刺さず、鈴木は奇跡的に一命を取り留めた。

 侍従長就任は29年。海軍軍令部長だった際、陛下が気に入られたという。タカは陛下の幼少期に養育係を務め、陛下は「母親のように親しくしていた」と回想されている。夫妻は特別な存在だったのだ。「朕自ら近衛師団を率いて現地に臨まん」。事件を受けたお言葉に陛下の憤りがにじむ。

 36年の秋、鈴木は侍従長を退任した。その際、陛下はこう話されたという。「外にあっても私を助けてくれるよう依頼する」(半藤一利「聖断」)

          ◎

 41年12月8日、日本海軍は米国の海軍基地・真珠湾を奇襲した。指揮を執ったのは連合艦隊司令長官の山本五十六。日米開戦に反対していた山本は米国との圧倒的な国力の差を踏まえ、短期決戦を考えていた。

 一方、国民はわずか半年で東南アジアの大半を占領した戦果に熱狂。日本は42年6月のミッドウェー海戦大敗で劣勢に転じたが、開戦を主導した陸軍の東条英機内閣の下、「一億玉砕」へと突き進んでいった。

 その中で終戦に尽くしたのが、2・26事件で生き残った海軍出身の鈴木と岡田啓介たちだった。動き出したのは事件時の首相だった岡田。倒閣に向け極秘裏に宮中や政界を奔走した。

 続く小磯国昭内閣は和平工作に挫折し、45年4月5日、後継を決める重臣会議が開かれた。「陛下の信任が厚い鈴木しかいない」。岡田たちは鈴木を推した。

 出席していた鈴木は「軍人が政治に出るのは国をほろぼす基なり」と固辞。するとその夜、陛下が自ら要請された。ここでも丁重に断る鈴木。陛下は言われた。「頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」。鈴木は腹を固めた。

 陛下が平和主義者であることを鈴木はよく知っていた。開戦前の御前会議でご判断を仰いでいれば戦争は起こらなかったと考えており、首相として臨んだ8月14日の「最後の御前会議」では自らその役割を担った。そして、ポツダム宣言受諾の聖断が下された。

 帰宅した鈴木は「陛下から『よくやってくれたね』とのお言葉をいただいた」とタカに告げ、感涙にむせんだ。秘書官を務めた長男のはじめは「父はこのお言葉のためにこそ、2・26事件にも死なずに生き通してきた」と振り返っている。

 48年4月に死去した鈴木が荼毘だびに付された際、事件で受けた銃弾が遺灰に交じっていたという。タカと眠る野田市の実相寺では平成最後の終戦の日となった15日、多くの人が墓前に手を合わせた。

(敬称略)

【2・26事件】 1936年2月26日、陸軍皇道派の青年将校らが約1500人の部隊を率いて試みたクーデター。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害された。首相官邸では秘書官が岡田啓介首相と誤認されて射殺されたが、首相は無事だった。29日に鎮圧。事件後、軍部が政治への干渉を強めていった。

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37431 0 永遠の平和 鈴木貫太郎没後70年 2018/08/20 05:00:00 2018/08/20 05:00:00 自宅でくつろぐ鈴木貫太郎とタカ(鈴木貫太郎記念館提供) https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180820-OYTAI50004-T.jpg?type=thumbnail

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