命がけの終戦 次代へ道筋

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東京の鈴木の私邸(1945年4月頃)。終戦の日に焼き払われた(道子さん提供)
東京の鈴木の私邸(1945年4月頃)。終戦の日に焼き払われた(道子さん提供)
祖父母に囲まれて写真に納まる鈴木道子さん(道子さん提供)
祖父母に囲まれて写真に納まる鈴木道子さん(道子さん提供)
「祖父たちを乗せた車はこの坂を走っていきました」と説明する道子さん(東京都文京区で)
「祖父たちを乗せた車はこの坂を走っていきました」と説明する道子さん(東京都文京区で)

 ポツダム宣言受諾の聖断を天皇陛下から得る大役を終えた鈴木貫太郎は、翌日正午の玉音放送を無事に迎えられるかどうかを気にしていた。1945年8月14日夜、東京・丸山町(現文京区)の私邸で床に就いたが、果たして15日未明、たたき起こされる。襲撃された首相官邸から、軍の徹底抗戦派を乗せた車が私邸に向かったとの一報が入ったからだ。

 私邸は不忍通りの坂に面していた。鈴木たちの車は裏手の坂道を上ろうとしたが、5~6人の大人数だったため発進できず、周囲の人らに押してもらってようやく走り出した。一方、不忍通りを上ってきた抗戦派の車は鈴木の家を通り越した後、引き返してきた。2台の車は私邸付近で行き違う形になり、その直後、屋敷は焼き払われたという。

 「わずか1分くらいの出来事。本当に間一髪だったと聞いています」。その屋敷の跡地に立つマンションで暮らす鈴木の孫の道子(86)は語る。

 道子は当時13歳。この年の5月から秋田県に集団疎開していた。家族と離れるのを拒んでいた道子に、首相になったばかりの鈴木は言った。「若い人たちは安全なところで暮らさないといけない。次の時代を担ってもらわないといけないから」。道子の耳には「次の時代」という鈴木の声が特にはっきりと残っている。「おじいちゃんは戦争を終わらせるつもりなんだ」とさとった。

 道子の母布美が鈴木に「娘に会いに行っておいで」と促され、秋田へ来たのは8月14日。2・26事件で襲われた鈴木は、自分の身に再び起き得る事態を想定していたのだろう。鈴木は布美も避難させたのだ。

 一方、鈴木の長男で道子の父のはじめは自ら官僚の職を辞し、首相秘書官を務めていた。難聴だった鈴木の「耳代わり」として、首相席の後ろに一の特別席を設けたのが鈴木内閣の閣議決定第1号だった。以来、終戦まで父子ですべての閣議に出席。一は「命を狙われる鈴木のボディーガード役は誰にも頼めなかった」と明かしている。

 鈴木は戦後、なぜ自刃しないのかと問われた際、「2・26事件で自分は一度死んでいるのだから、生きるだけ生きて日本の再建をこの目で見届けたい」と語っている。その言葉通り、枢密院議長として日本国憲法を審議し、郷土関宿に酪農振興の道筋をつけ、48年4月17日に逝った。

 鈴木が親族に発した最期の言葉は「永遠の平和」だった。道子は「命がけで戦争を終わらせた人の究極の言葉」だと表現する。戦争を繰り返してはならないという鈴木たちの願いを「次の時代」へと伝え続ける。それが、今を生きる自分たちの責任なのだと考えている。(敬称略、おわり)

 (この連載は矢牧久明が担当しました)

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37725 0 永遠の平和 鈴木貫太郎没後70年 2018/08/22 05:00:00 2018/08/22 05:00:00  終戦の日に焼き払われた東京・千石の鈴木の私邸。1945年4月頃撮影。鈴木道子さん提供 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180822-OYTAI50006-T.jpg?type=thumbnail

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