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岐阜・美濃地方の岩村藩医の養子・神谷雲沢が、長崎に向かったのは寛政8年(1796年)、24歳の時だった。「岩村町史」によると、雲沢は、すでに名古屋で医学と儒学を学んでいて、長崎では、西洋外科と
◆1種類
雲沢はもう一つ、持ち帰ったものがあった。ポルトガル伝来のカステラの製法だ。それを城下の菓子店に伝授したという。
この菓子店が、今も旧家や商店が並ぶ伝統的建造物群保存地区の一角にある、松浦軒本店(岐阜県恵那市岩村町)だ。
7代目当主の松浦昭吾さん(76)によると、「神谷雲沢に製法を教えられた」と代々言い伝えられてきた。220年余り、基本的な焼き方や材料の配分は変わっていないという。
同店の「カステーラ」は香ばしく、甘さがすっきりしているのが特徴だ。
小麦粉、砂糖、卵に蜂蜜を加える。小釜と呼ばれる銅製の金型(内径の長さ18センチ)で15分程度焼く。季節や天候によって時間は変わる。こんがり焼き上がったら、周囲をくるみ、1日かけて、表に出た水分を元に戻す。硬くならないための工夫だという。
カステーラは1種類だけ。価格は530円(税込み)。1日に300~500個ほど焼く。元日以外、毎日焼いている。ネットのほか、東京や名古屋のデパートでも販売している。

◆水あめなし
本場の長崎カステラは明治期に入り、水あめを入れるなどで、しっとりした食感を出して人気を集めた。他の地域でも広がったが、松浦軒本店は伝統のレシピを変えなかった。
昭吾さんは「水あめは、あえて入れていません。名物の味を守るのはいい材料を使うこと。和菓子と同じ」と語る。
カステーラは、地元の味としても親しまれている。コロナ禍の前の店舗の売り上げは、地元が6割、観光客が4割だった。
松浦軒本店に保存されている明治28年の広告には「滋養」が豊富で、「お見舞い」に適していると書かれている。カステラは江戸時代に滋養食とされていた。
昭吾さんの妻和子さん(72)は「戦争中は、砂糖が手に入らず、カステラは焼けなかったが、戦後、ほそぼそと始めた。その時は行列が出来たと聞いている」と話す。
「長崎学」で知られた医師の中西啓氏は、「カステラ文化誌全書」(1995年、平凡社)への寄稿の中で、「蜂蜜を加えることによって、日本人の
◆改革
昭吾さんが当主を父親から継いだのは、30年余り前だ。工業高校など21年間勤めた教員を辞めて、家に入った。まず、職人の勘を頼りにしていた製造方法を改革した。電子オーブンを温度設定出来るようにした。材料のかくはん器もタイマーで自動的に切れるようにした。製造ラインも増やした。
このおかげで、焼き上げが安定し、売り上げは約5倍に増えたという。さらに、焼き上げの時間と温度などのデータを毎日記録し、研究を怠らなかった。
東京で大学に進学した長男の陽平さん(37)は10年前に戻ってきて、専務として働いている。8代目を継ぐ予定だ。陽平さんは「あんな古い菓子と言われた時もあったが、父が復活させた。品質をさらに向上させ、おいしく食べていただける」と自信を示す。
取材後記 かつての城下町振興期待
カステラの製造法を伝えた神谷雲沢は帰郷後、藩医となった。「長崎遊学者事典」(平松勘治著)によると、雲沢は「尊王の志」が強く「藩政改革を建議した」が、果たせなかったようだ。
岩村は交通の要所で城下町として栄えた。明治維新後、中央線が中津川方面を通ったため、岩村の篤志家が電気鉄道を恵那まで敷いたという。現在は、明知鉄道が結んでいる。古い町並みに松浦軒本店も健在だ。
恵那市は今年10月、全国山城サミットを開催する計画だ。郷土史に詳しい岩村町在住の西尾精二さん(94)は「りっぱな城を守っていけば、町並み保存地区の空き家にも、新しい人が入って店を開いてくれる」と話している。
世界の窓を垣間見た雲沢には不明な点が多い。ただ、伝授したカステラが200年以上も続くとは思ってもいなかったことだろう。(天野誠一)
松浦軒本店
創業1796年(神谷雲沢が長崎に遊学した年を創業年としている)。1952年会社設立。従業員6人。「カステーラ」のほかに、栗きんとん、御殿柿などの和菓子も製造、販売している。
カステラ
16世紀、日本に渡来したポルトガル人が伝えた伝統的な焼き菓子。もとは、スペインのカスティーリャ地方のものだったという話を聞き、日本ではカステラの名で呼ばれるようになったらしい。