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バチッ、バチッ。火花が何度も散った。1500度以上の高温で溶かされた鋳鉄。煮えたぎった状態を「湯」と呼ぶ。ヘルメットと粉じん防護マスクで身を守った2人1組の技能者が、2か所の注ぎ口から鋳型に「湯」を流し込んでいった。約3トンの鋳鉄を使用した。
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桶狭間の戦いがあった1560年に創業したナベヤ(岐阜市)。受け継がれた高度な鋳物技術を土台に、お寺の釣り鐘から自動車、半導体、工作機械などの生産現場で使われる
製作したのは、
鋳物の工程は、まず製品と同じ形の模型をつくる。粘土を含んだ砂で模型の型を取り、鋳型を製作。注湯、冷却後、枠を外し、仕上げ加工する。
製作原理は昔と同じだが、今はコンピューターで3次元設計を行う。こうして造られた定盤はゆがみのない正確な平面を実現する。
防振装置は、試験による振動で周辺の測定器に影響を与えることや、周辺の振動の影響を防ぐ。
岡本知彦社長(61)は「定盤と防振機能をまとめて製品にしているのは他にはない。据え付けも我々が行う」と強調する。
◆多品種少量生産
明治時代以前は、ナベヤをはじめとした鋳物師は、全国で108軒を超えないように保護されてきたと伝えられている。

戦時中は、鋳物の軍事物資の需要が増えたが、「戦争中はあえて大きくせず、こぢんまりやってきた。いいなりになっていたら、すべて失ったかもしれない」。岡本社長は当主の太右衛門会長(91)からそう聞いているという。
戦後は時流の変化とともに、主力製品を変えていった。この柔軟性が長寿の理由だ。
大須観音(真福寺、名古屋)や柴又帝釈天(題経寺、東京)などの釣り鐘を生産し、高度成長期は作業工具の万力の量産・輸出が柱となった。だが、1980年代の円高不況を契機に、精密切削加工用の治具を中心とした「多品種少量生産」に切り替えた。
防振にかかわるきっかけとなったのは2003年ごろ。防振製品を扱うNECのグループ企業と協力関係を結び、06年にはこの企業から防振部門の営業譲渡を受けた。
この企業から防振技術を学んだ柴山宜伸さん(44)は「振動や防振にこれまで縁のなかった業界でも新たなニーズが出てくる可能性がある」と将来性に期待している。
◆検定取得促す
「岡本・ナベヤグループ」5社の社長を兼ねる岡本社長は、「(ブランド力のある)自社製品をつくること」と「鋳造で培ったまじめに、こつこつと、愚直なものづくり」の両立を経営方針に掲げる。
これを可能にするのが、技術の伝承と、最新のデジタル技術の活用だ。
社員には技能検定の取得を促し、認定された技能者は82人にのぼる。資格の総数は特級から2級まで226件に達する。酒井正一専務(67)は「すべて機械に任せず、人間がやっている限り、たえず改善し、新しい工夫が盛り込まれる」と語る。
一方、これまで勘、コツでやってきた作業の数値化を進め、工程のデジタル化などに反映している。原真文・鋳造技術課長(37)は「技能者に鋳物が固まる画像シミュレーションも見てもらい、イメージをつかんでもらっている」と話している。
取材後記 460年の歴史愛着と誇り
電気炉の中で煮えたぎる鋳鉄は、白っぽく、まるで湯のように見えた。鋳物の世界で「湯」と呼ばれてきた理由が納得出来た。
ナベヤの創業は、信長が岐阜城に入る前。城近くで鋳物師をしていたが、のろしと間違えるので別の場所に移動させられたと伝えられている。岐阜近辺では鋳物師は一軒だけだったため、「ナベヤ」の名で通ったようだ。
もともとはナベヤと同じ会社だったグループの岡本は、1964年の東京五輪の聖火台のレプリカを製作するなど、グループは鋳物の歴史とともに歩んできた。かつて数多く製造した釣り鐘は最近注文がないが、いつでも製造出来るように、技術を維持している。働く人も、道具も大切にしている。毎年3月には、従業員だった人たちの物故者供養を行い、何度も使った鋳物砂の供養もしている。460年以上の歴史に愛着と誇りを持っていることを実感した。(天野誠一)
鋳物
鉄などの金属を高温で溶かし、型の中に流し込んだ後に、冷やした製品。この製法を鋳造と言い、複雑な形状の金属製品を作れる。かつては鋳物を作る職人を鋳物師(いもじ)と呼んだ。日本には弥生時代に大陸から伝わったとされる。
ナベヤ
1560年(永禄3年)創業。岡本太右衛門会長(15代目当主)、岡本知彦社長。ナベヤの会長、社長が「岡本・ナベヤグループ」全5社の会長、社長を兼ねている。グループの合計売上高は122億円(2022年8月期見込み)、総従業員数578人。