[奥会津 12月] 逃げたかった異国で
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金山町にある県立川口高校には町の学生寮がある。
「おかえり。カバンの雪を払ってから入りな」
帰ってきた生徒に、寮母の栗城愛さん(63)の威勢のいい声が飛ぶ。「熱っぽい」と玄関横の舎監室に顔を出した男子には「わきにしっかり挟んで」と体温計を渡す。「愛さんは親元を離れて暮らす寮生みんなのお母さん」と3年の菅野由唯さん(18)は全幅の信頼を寄せる。
1995年6月、長春。9歳年上の夫
正一さんが選んでくれた時はうれしかった。「無口で愛想はないけど、細くてかっこいい」というのが第一印象。日本語は一つも知らなかったから会話はできない。「性格が悪かったら逃げればいいか」くらいに考えていた。
高度成長期は奥会津のような東北の農山村から若者がこぞって上京し、労働力として日本経済を支えた。一方で過疎は進む。特に80年代以降は「嫁不足」が深刻になり、中国や韓国、フィリピンなどに妻を求める国際結婚が各地で組織的に行われるようになる。愛さんもそうやって迎えられた一人だった。
24歳で愛さんは最初の結婚をしている。3歳上の韓国人男性との間に娘をもうけたが、結婚5年目に夫を車の事故で失った。その後は焼き肉店で働きながら夢中で娘を養った。「日本に行けば少しは楽な暮らしができるかなと。いま考えると、環境を変えたかったのかもね」
9月に来日すると、成田空港まで正一さんが迎えに来た。なんとなく都会暮らしを想像していたが、列車の窓から見える山々が次第に険しくなっていく。只見線会津横田駅で降り、さらに車で6キロ奥の集落へ。絶句した。「こんなところに人が住んでいるの?」
その冬は雪が2メートル積もった。中国では見たことのない豪雪で、姉に電話しては「帰りたい」と泣いた。

建設会社に勤める正一さんをはじめ金山の人たちは優しかった。水も空気もおいしい。長男を身ごもってからは「日本語を勉強しよう」と覚悟を決めた。日中ずっと一緒にいる義母のウメ子さんが先生だ。「これは何?」「フライパン」「これは?」「急須」。一つずつメモして壁に貼った。「おかげで、湯へぇれ、まんま食うべ、って会津弁ばっかり上手になったの」

そのウメ子さんも、義父も亡くなった。退職後、一緒に舎監を務めていた正一さんも今年2月、71歳で死去した。長男(24)は大学を卒業し、栃木県小山市にいる。ひとり残った愛さんは「いまは寮の仕事が人生の全て」で、もうどこにも行くつもりはないという。
生徒に大人気の手作りギョーザを振る舞い、勉強中にスマホをいじっていれば大声で叱る。「親に仕送りしてもらって、ちゃんと感謝しているのか? 子ども一人育てるのも簡単じゃないよ。勉強を頑張って、立派になって、恩返しするんだぞ」。自身の来歴を話したことはないが、少し中国語なまりのあるお説教は不思議な説得力があり、27人の寮生は真剣な目で黙って聞いている。(高倉正樹)