[災後の福島で 第7部] ふるさと教育(1) おぼろげな記憶 紡ぐ
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東日本大震災は、子どもの学びにも大きな変化をもたらした。原発事故で学校ごと避難した自治体も相次いだ。かつての古里を知らない世代は、これから古里を再生していく担い手でもある。3月で震災から10年。長期連載「災後の福島で」第7部は、ふるさと教育の今を報告する。
大熊中
昨年12月、双葉郡8町村の学校をオンラインで結んだふるさと創造学サミット。会津若松市に避難する大熊町立大熊中の3年生たちも学習成果を発表した。
斎藤
小説家になるのが夢という。「古里を離れた大熊の人たちを本の力で癒やしたい」と目を輝かせる。
避難先での「ふるさと教育」は難しさを増している。理由の一つは教職員の構成だ。相双地方で震災を経験した人は年々減り、現在は15人中3人しかいない。
新井田克生校長(49)も会津地方出身で、「生徒と同様、私たちも日々大熊のことを学んでいる」と話す。大熊について書かれた新聞記事を校内に掲示し、生徒が少しでも故郷を身近に感じられる工夫をしている。町に足を運び、考えさせる取り組みにも力を入れる。
「義務教育の9年間すべてを避難先で過ごした生徒だから、古里と言われても戸惑うかもしれない。つながりを持てるようにしていきたい」
斎藤さん、東理さんに長谷川
原発事故で全町避難となった大熊町は11年4月、会津若松市で小中学校と幼稚園を再開させた。大熊中は高校の廃校舎の2階で開校。この年の生徒は217人だった。2年後に現在の仮設校舎に移った。
原発事故当時、今の3年生は幼稚園児で、避難の日々も断片的な記憶しかない。小学校の級友は学期が変わるたびに転校していった。「お別ればかりだった」と東理さんは振り返る。
8年間使われた仮設校舎は今春で役目を終え、解体される。そこで3人が昨秋から始めた部活動は、その名も「アーカイ部」。活動の一つとして使い捨てカメラで仮設校舎の日常を切り取り、記録した。昼休みの図書室、教室での居眠り、床に映る3人の影――。「この写真めっちゃいいね」。屈託のない笑い声が静かな教室に響いた。
将来は大熊に戻るのだろうか。斎藤さんは「自分が生まれた場所だから、戻って生活したい」と語る。東理さんも言葉を選びつつ、「大川原に祖母とおばが住んでいる。大熊とはつながっていたい」と話した。(堀内佑二)
ふるさと創造学 古里の伝統や文化を受け継いで復興を担う人材を育てようと、2014年度から双葉郡8町村の学校共通の取り組みとして始まった学習活動。地域を題材にした探究的な学びが中心で、児童生徒が成果を発表するサミットを郡山市で毎年開いている。昨年は新型コロナウイルスの影響でオンライン開催となった。
第二の母校を映像に
富岡第一・第二小
三春で学びながら、学校名には富岡と入っている。多くの児童は隣の郡山から通う。なぜ、これほどまでに複雑なのか。
富岡町立富岡第一小・第二小が、中学校や幼稚園とともに避難先の三春町で再開したのは2011年9月だった。児童は三春校の来歴を調べ、映像で残す授業を通して、故郷で何が起きたのかを知ることになる。
富岡町では17年に大部分で避難指示が解除され、住民の帰還が進む。翌春には第一小・第二小の富岡校も地元で開校し、三春校は22年度から統合されることが決まった。原発事故をきっかけに誕生し、まもなく閉校する三春校を忘れないようにと18年に始まったのが、この取り組みだ。
今年度は6年生の渡辺大輝君(12)、遠藤瑚都音さん(12)、但野海斗君(12)が「つなげよう三春校の歴史」と題した26分の映像を完成させた。インタビューしたのは開校当時の教職員や卒業生ら6人。2年かけて撮影から編集までを3人でこなした。
但野君は「校舎の周りにある緑のフェンスが、僕らを守るためのものだとインタビューで初めて知った」と話す。富岡町の要請で「曙ブレーキ工業」が自社の工場を提供。事務所を改装してできたのが三春校の校舎だった。開校当時は工場がまだ稼働していたため、子どもの安全に配慮してフェンスが設置された、と同社関係者が話してくれた。ロッカーや机も全国から寄付されたものだった。
「多くの人の思いやりが集まってできた素晴らしい学校。生まれた富岡町も学校がある三春町も、私にとって大切な故郷です」と遠藤さんは語る。
3人はそれぞれ別の中学校に進む。離ればなれになるが、「卒業してもまた会いたいね」と言い合っている。(井上大輔)