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「続ける大事さ信じた」 日本料理店料理長・うどん店主 小林慶司さん(46)

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努力重ね30歳で料理長に

うどん店の料理場に立つ小林さん(東京都千代田区で)
うどん店の料理場に立つ小林さん(東京都千代田区で)
甲子園で打席に立つ小林さん(1991年春撮影、本人提供)
甲子園で打席に立つ小林さん(1991年春撮影、本人提供)

 2年ぶりになる夏の高校野球県大会が10日、開幕する。3年生にとっては集大成の位置づけで、大会で引退した後は、野球から離れる選手も多い。かつては野球に情熱を燃やし、現在は他分野で活躍する元球児たちの足跡をたどった。

 都心のど真ん中、東京・有楽町にある東京交通会館に6月13日、うどん店が新装開店した。自家製のたれは、郷土の名物と同じで、県民になじみ深いごま味。喉越しの良い麺に舌鼓を打つ客の笑顔に、小林さんが目を細めていた。

 30年前の春の選抜大会。小林さんの姿は甲子園球場にあった。春夏通じて初の甲子園に出場した桐生第一で、2年生ながら唯一のレギュラーを勝ち取った。二塁の守備位置で、「レベルの高い相手と試合ができる」と心を躍らせていた。

 不思議と緊張はなかった。初戦の一回二死満塁、先制の好機で打席を迎えた。真ん中の直球を振り抜くと、打球は中越えの先制三塁打となり、記念すべきチーム初打点になった。アルプススタンドから内容が聞き取れない声援が今も耳に残っている。

 高校卒業後も社会人で野球を続けたかったが、就職した会社には硬式野球部がなかった。「目標を失い燃え尽きた」。半年で退社。その後、結婚式場の 厨房ちゅうぼう で働き、元々好きだった料理に興味を持つようになった。中学生の頃には同級生に手製のチャーハンを振る舞ったこともあった。

 「本格的に料理をしたい」。漠然とした志だった。また半年で辞め、ひとまず高崎から東京方面を目指した。野球漬けだった生活で路線図は全く知らなかった。ボストンバック二つを持ち、飛び乗ったのは八高線だった。見送りは誰もいない。19歳の秋だった。

 終着駅の八王子で、レストランのアルバイト募集の貼り紙を見つけ、直接店に向かい、その日から働き始めた。鍋洗いや食材の準備など下積みの毎日だった。

 その後の約12年間、4店舗で料理の腕を磨いた。100人分の食材を無駄にする失敗もあったが、野球で「継続」することの大事さを学んでいた。小学3年で始めた野球では、練習を続けたことで甲子園での活躍につながったと信じている。

 30歳になって、銀座の日本料理店に料理長として就職するまでになった。丹精込めた料理に客が喜ぶ姿は素直にうれしい。うどん店は「もっと多くの笑顔を見るため、日常的な料理を提供したい」と自ら企画した。

 バットより包丁の方が、手になじむようになって久しい。うどん店の名は「八重桜」。野球を始めた小学生時代のチーム「桜木チェリークラブ」が由来だ。やはり野球が原点にある。

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2175404 0 白球の思い出 2021/07/03 05:00:00 2021/07/03 05:00:00 2021/07/03 05:00:00 「八重桜」で料理をする小林さん(東京都千代田区有楽町の八重桜で)=弓立美沙輝撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210702-OYTAI50024-T.jpg?type=thumbnail

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