文字サイズ

    <下>全線開通 喜びつかの間

    • 全線開通を祝うテープカット(1975年8月31日、浜原駅で)=長船さん撮影
      全線開通を祝うテープカット(1975年8月31日、浜原駅で)=長船さん撮影
    • 宇都井―伊賀和志間の鉄橋を渡るSL江の川号(1992年11月22日)=長船さん撮影
      宇都井―伊賀和志間の鉄橋を渡るSL江の川号(1992年11月22日)=長船さん撮影
    • 自ら著した三江線の本のゲラ刷りを見る長船さん(広島市安佐南区で)
      自ら著した三江線の本のゲラ刷りを見る長船さん(広島市安佐南区で)

     ◇進む過疎化 災害追い打ち

     1975年8月31日、三江線の浜原―口羽間がつながった。全線開通を迎えたその日早朝、広島市安佐南区、長船友則さん(84)は浜原発口羽行きの1番列車に乗った。開通式典にはまだ早く、乗客はほとんどいなかったが、トンネルと鉄橋が多くを占める路線を2往復した。その間に乗客数も膨れあがり、両駅で行われた式典には多くの住民が集まり、開通を祝った。

     長船さんは鉄道史学会会員。若い頃から中国地方を中心に鉄道に関する資料を集め、写真を撮り続けてきた。最近著した「三江線88年の軌跡」(B5判、48ページ)では「私も当日の開通式に居合わせて、また祝賀列車に乗りに来て本当に良かったと思った。地元民の大きな喜びの表情を見るにつけ、この喜びがまるで自分のことのように感じられた」と記している。

         ◇

     だが、すでに過疎化の波は止められなかった。沿線自治体による全通促進期成同盟会は翌76年、改良利用促進期成同盟会と改称し、存続への陳情を続けた。

     87年にJRが発足後も利用客の減少は続き、様々なPR活動が行われた。中でも70年代まで走っていたSLを走らせる試みは人気を博した。92年から秋の観光シーズンに2日ほど、江津―口羽間などを「江の川号」として走行。98年まで続けられたが、結局、利用者増にはつながらなかった。

     むしろ、相次ぐ災害が追い打ちをかける。2006年7月、13年8月の豪雨では、それぞれ全線で運休となり、完全に復旧したのはいずれもほぼ1年後だ。

     長船さんも「自然災害と復旧にかかる膨大な費用を考えれば、廃線もやむを得ない」と唇をかむ。

     ◇線路の活用模索

     廃線後の利活用について長船さんは著書のあとがきで、三江線の遺構として残せるものは残し、路線跡はウォーキング道などへの活用を提言している。

     廃線の検討が伝えられると、沿線の観光協会に呼びかけ、PRを続けた三次市観光協会専務理事の政森進さん(67)は「全国から訪れてくれる観光客に地域の魅力を発信し、廃線後につなげたい」と話す。

     広島、島根両県を流れる江の川沿いの風景が今後どうなるのか。地方創生の行方を占うように108キロの鉄路が横たわっている。

     (この連載は三次通信部・浅野博行が担当しました。写真使用は安芸高田市歴史民俗博物館のご協力をいただきました)

    2018年02月13日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    PR
    今週のPICK UP

    理想の新築一戸建て