<3>苦難の歴史 次代に継ぐ
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◇講演やドキュメンタリー制作
「私たちは生きるために、ずっと前だけを見て歩きました」。2月13日、広島市中区の市立白島小で、6年生約70人が川添瑞江さん(79)(同市南区)の話に聞き入った。
川添さんは1938年、満州(現中国東北部)で生まれた。7歳で終戦を迎え、混乱の中、同じ地域に住む日本人たちと森の中を逃げまどった。飢えをしのぐため、荷物を運ぶための馬も殺して食べた。
ある朝、目が覚めると母親は冷たくなっていた。父親と妹も亡くなり、生き残った姉と別々の中国人に引き取られた。
72年に日中が国交正常化した時、養父は「あなたは日本人。日本に帰ってもいいですよ」とさみしそうに言った。遠慮もあったが、思い切って大使館に手紙を書いた。77年の一時帰国を経て、92年に永住帰国した。54歳になっていた。
「50年ぶりの勉強でしたが、心が若返ったようで、毎日学校へ行くのが楽しかったです」。夜間中学で日本語の勉強を続けた。進学した通信制高校の授業は難しく、何度も諦めようと思ったが、担任の励ましで頑張れた。
この日、川添さんは終始、漢字にルビをふった手元の原稿を読み上げた。全部読み終えると、原稿にはない一節を付け加えた。
「もうすぐ卒業の皆さん、苦しいことがあっても諦めないでください。戦争をしたらどんな苦しみ、悲しみがあるのか、改めて考えていただきたいと思います」
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中国残留邦人の体験を、いかに継承していくか。
戦中戦後の混乱の中で両親と姉妹を亡くし、兄と孤児になった赤崎大さん(77)(広島市西区)は2014年、自らの体験をまとめ、出版した。「略奪も横行し、本当にひどかった。二度と戦争を起こさないために、記録に残して、伝えていかなくてはならない」と話す。
国も残留邦人による証言の記録を進めており、16年度からは新たに証言映像を撮影する事業を始めた。3年かけて計60人分を集め、ホームページなどで公開する。
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日本が背負った負の歴史を継承しようと、若者たちの活動も芽生え始めている。
広島経済大・徳永博充ゼミの学生4人は昨年、ドキュメンタリーを制作した。広島市中区の基町地区であった祭りを訪れた際、残留邦人らに出会ったのをきっかけに興味を持った。
約9か月間にわたり、基町地区での取材を重ねた。作品では、旧正月を祝う行事や花見といった日常風景、言葉の壁や生活習慣の違いから来るトラブルにも焦点を当て、帰国後も続く苦しみも切り取った。
ディレクターを務めた4年の藤本益之介さん(22)は「こんな身近に残留邦人の方々が暮らしていたとはそれまで知らなかった。取材を通し、日本人がしっかりと向き合わなければいけない歴史だと、強く思った」と話す。
作品は動画投稿サイト「ユーチューブ」で、「私は日本人です 鷹一さんと二人のお
◇証言の記録 全国で
残留邦人に関する証言などを記録する動きは、全国に広まりつつある。
2013年4月、全国最多の満蒙開拓団を送り出した長野県の阿智村にその歴史を伝える「満蒙開拓平和記念館」が開館した。残留邦人が生まれた歴史的背景などを学ぶことができ、年間約3万人が訪れる。
首都圏中国帰国者支援・交流センター(東京都台東区)は、16年10月から語り部を養成。2期計16人が3年間の研修を受けており、1期生は早ければ19年10月から語り部としての活動を行う予定だ。