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<537>子の代まで続いた差別

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被爆しながらも看護にあたった 池田智恵子さん 89

「私の体験を聞いた子どもたちが世界平和を実現してくれると信じている」と話す池田さん(広島市安佐北区で)
「私の体験を聞いた子どもたちが世界平和を実現してくれると信じている」と話す池田さん(広島市安佐北区で)

 76年前のあの日は、心待ちにしていた映画鑑賞会の日でした。当時は13歳で、爆心地から約9キロ離れた安国民学校高等科の2年生。教室で上映の準備をしていた時に、広島市中心部の方向から閃光せんこうが見えた瞬間、腹をえぐられるような衝撃を感じました。

 教室の窓ガラスが割れ、頭に降りかかってきました。一瞬のことで何が起こったのか分かりませんでしたが、それが原爆だったのです。しばらくすると黒い雨が降り始め、着ていた白いブラウスがみるみる黒く染まりました。

 下級生を守りながら防空ごうに避難させていると、全身にやけどを負い、皮膚が垂れ下がった人々が「助けてくれ」と声を振り絞りながら学校にぞろぞろと入ってきて驚きました。市中心部で被爆した人たちでした。

 急場の救護所として学校で避難者を受け入れ、消防団員や地域住民とともに、自分たちも看護に加わりました。もちろん十分な薬はなく、やけど部分に赤チンや、すったキュウリを塗り込むだけでした。毎日、約70人もの遺体を近くの山で火葬しました。あまりにも残酷で、直視することができませんでした。

 今でも忘れられない光景もあります。重傷を負った女性に「娘を抱いて」と頼まれ、幼い女の子を抱きしめると、安心したように母子共々息を引き取りました。水を求めて川へ行き、一口飲むと倒れて亡くなる人々もいました。

 学校で2か月以上、必死に手当てを続けました。小さな頃から看護師に憧れていたのもあり、「なんとか助けてあげたい」という気持ちでいっぱいでした。

     ◇

 幸いにして、父母やきょうだい、祖母の家族8人は大事に至りませんでしたが、被爆の影響がなかったわけではありません。私は被爆してから約1年間、慢性的な鼻血に悩まされました。同級生から心ない言葉をかけられ、傷つきました。近所からは「被爆した女は嫁にもらうな。変な子が生まれるぞ」と差別を受けました。

 2歳年下の妹は、被爆の12年後に、23歳で亡くなりました。私は50年が経過してから、心筋梗塞こうそくや皮膚がんを患いました。市内で被爆した主人も、30歳代半ばで髪の毛が抜け始め、長男が友人から「お前の父ちゃんは坊主頭じゃのう」といじめられたこともありました。ずっと、米国と原爆を憎んで生きてきました。

     ◇

 しかし、2016年に当時のオバマ大統領が広島を訪れて以降、憎悪の気持ちが変化していきました。被爆者が高齢化で減っているというニュースも見聞きしました。「私が話さにゃいけん」と思い、85歳になった17年から毎年、原爆忌の前後に、小学校や地域センターで被爆体験を伝えています。

 90歳まで続けることを目標に始めましたが、今は死ぬまで自分の口で訴え続けていこうと思っています。子どもたちに魂のバトンを渡す、それが私の使命です。(聞き手・宮山颯太)

 いけだ・ちえこ 1932年生まれ、広島市安佐北区在住。戦後は、夫の正太郎さん(2006年に77歳で死去)の石材研磨の仕事を手伝い、夜は洋裁で生計を助け、5人の子を育て上げた。今は語り部活動で子どもたちからもらった感想文が宝物だという。

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1827093 0 語りたい伝えたいヒロシマ 2021/02/08 05:00:00 2021/02/08 10:42:41 2021/02/08 10:42:41 「私の体験を聞いた子どもたちが、世界平和を実現すると信じている」と話す池田さん(22日午後2時42分、広島市安佐北区で) https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/02/20210208-OYTAI50000-T.jpg?type=thumbnail

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