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救護所で出産を手伝った 佐々木フジ子さん 95
母子とも「生きて」と願い

救護所で見たお産は忘れられない。ひどいやけどを負ったけが人の中に、妊婦さんがいて、急にお産が始まったんだから。
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地元で和裁をやっていた18歳の秋、祇園(現・広島市安佐南区)の三菱の工場に動員された。仕事は部品の検査。終戦の年だったか、日本各地で空襲が激しくなり、工場内でも救護班ができた。
「ピカ」の日は暑い盛りで、工場の中にいた。朝、航空部品をそろえていたら、ピカッと光った。機械のショートかなと思った瞬間、「ドーン」とものすごい地響きがした。
びっくりして外へ出ると、マツタケみたいな雲がモクモク上がりだした。工場の上空に雲はなかったけど、広島市中心部の方は真っ黒い雲で覆われていた。大空襲のあった名古屋から来た人も「
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工場の講堂は、避難してきたけが人の救護所になり、昼頃にはいっぱいになった。服がちぎれたり、腕の皮膚が垂れ下がったり。「よくここまでたどり着いたな」という人ばかりだった。
そこで「大変じゃ」という声がして、妊婦さんの陣痛が始まったのに気づいた。数人で
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たくさんのけが人の顔や体に、白い薬や赤チンを塗るのを手伝った。夕方からむくみが出て、顔が膨れあがって目が細くなるので、みんな同じ顔に見えた。
講堂に入れないけが人は、女子寮まで運んだ。2人組で担架で運んだけど、重くて重くて。寮の部屋もすぐに埋まった。生きるのが精いっぱいという人ばかり。
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戦後、被爆体験を話すことはなかった。知らない人に言っても、一人芝居になってしまうから。
でも、戦争はええもんじゃない。田舎におる人も大変だった。油が足りず、母は「毎日、(代替油の)松根油を作るために松の根っこを取りに行った」と言っていた。自分で米や野菜を作っても、軍に出すから自由にならない。兵隊さんだけじゃなく、みんなが戦争に巻き込まれていた。
若い人には、あの苦労はさせたくない。若い世代はちょっとのんきで深く考えていない気がするが、年寄り世代が辛苦して今日があるんじゃけ、戦争の話を聞いて、平和に暮らせるありがたみを分かってほしい。(聞き手・山本慶史)
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ささき・ふじこ 1926年、安芸太田町生まれ。現在も同町在住。動員された三菱の工場で結成された救護班では週1、2回、教室に10人ほどが集まり、止血や三角巾を使った救急の実習、体の構造も学んだという。戦後まもなく結婚し、主婦として子育てに追われ、現在はひ孫もいる。
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佐々木さんを広島テレビ放送が取材・制作した動画はこちら