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母の最期の言葉支えに生きる 高品健二さん 84(広島市安佐南区)
真っすぐな心 忘れず

「今から一人で生きていくんやから、どれだけ貧しくても、真っすぐ生きなさい」。被爆から1週間後、母の最期の言葉だった。その言葉があったからこそ、今日まで生きてこられた。
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当時8歳だった私は爆心地から2・5キロ離れた広島市出汐町(現・南区)の自宅近くで、友達と2人で遊んでいた。コンクリート製の防火水槽の陰にしゃがんでいた私は突然、強烈な光に襲われ、爆風で10メートルほど吹き飛ばされた。
しばらくして友達を捜すと、友達は体の上半分が焼けただれ、顔にはガラスの破片がいっぱい刺さっていた。何とか友達の手を引いて家に帰ったが、家の中はめちゃくちゃ。母は柱の下敷きになり、とても苦しそうにしていた。
迎えに来た母方の親族に連れられ、その場から避難したが、途中で友達は亡くなった。
亡くなる直前、友達にトマトをあげた。水がほしかったのか、むしゃぶりつくように食べてね。最期に「トマト、おいしかったよな」と言い残し、息を引き取った。
被爆した母の体調もどんどん悪くなっていき、歯茎からは血が出て、さらに髪の毛も抜けた。そして、1945年8月13日、最期の言葉を絞り出し亡くなった。
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軍人だった父は日本と旧ソ連が軍事衝突したノモンハン事件(1939年)の戦地で亡くなった。きょうだいもいなかった私は母を失い、独りぼっちになってしまった。
そこからの人生は苦難の日々。一時は父方の親族に引き取られたが、「お前の原爆病がうつったらいかん」などと冷たく言われ、肩身が狭かった。見かねた叔母が私を中学卒業まで育ててくれたが、学費が払えず、高校進学の夢は絶たれた。
「もうここにはいられん」と家を飛び出し、21歳までの6年間は広島市内のあちらこちらで遊んで過ごした。子供心に葛藤があって、やんちゃなこともしたが、やはり母の最期の言葉が胸に残っていたので、悪い道には走らなかった。
どこかで人生をやり直さないといけないと考えていた頃、大阪にいた母方の親族の勧めで、理容師の道に進んだ。理容師の世界に入るには遅い方だったが、修業していた理髪店の主人が本当に親切で、私の理容学校の学費まで払ってくれた。それでいて、あまり干渉せず、「自分のやりたいことをやれ」といつも応援してくれた。今でもその主人は、私にとって神様のような存在だ。
30歳を前に、大阪で自分の店を持つことができ、家族にも恵まれ、トントン拍子で人生が好転していった。理容師としていろんなお客さんの話を聴くうちに、自分の人生観も広がっていったような気がする。
真の平和とは、耐え忍ぶ先にあるもの。若い人たちには伝えたい。自分の命を大切にして、真っすぐ耐えて生き抜けば、何百倍も幸せなことが、いずれやって来るからねと。(寺田航)
たかしな・けんじ 1937年生まれ。広島市出身。8歳で爆心地から2.5キロで被爆。20歳代で理容師となり、現役時代は大阪府茨木市に店を構えた。引退後は故郷の広島に戻り、子供たちに被爆体験を証言している。
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高品さんを広島テレビ放送が取材・制作した動画はこちら