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「黒い雨」の被害を訴える市民団体元会長 清木紀雄さん 81(広島市安佐南区)
国の認定基準 村を分断

8月6日は晴れた朝でした。5歳だった私が家で留守番をしていた時、空が「ピカッ」と光った直後に「ゴォーン」と地響きがし、しばらくして黒い雨が降り出し、慌てて家の中に駆け込みました。
庭の水たまりは墨汁を混ぜたようで、蔵の
当時の安佐郡安村には、9キロほど離れた広島市中心部から避難してくる人の列ができ、一日中途切れませんでした。みんな服は焦げてぼろぼろ。皮膚が垂れ下がった人らを、寺や民家で看病していました。
17歳の兄は、爆心地付近で建物疎開の作業中で、父らが大八車に乗せて夜に連れ帰りました。「ほんとに兄かの?」と疑う姿で、間もなく亡くなりました。
給料が入れば、あめ玉を買ってくれ、かわいがってくれた優しい兄。なぜ、あんな姿で逝かなければならなかったのか。今でも思い出すと涙があふれてきます。
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黒い雨に遭った人について、国は1976年、爆心地から一定の区域にいて、特定の病にかかった人を被爆者にすると決めました。安村は幅1・5メートルほどの用水路に区域の境界線が引かれ、同じ体験をした幼なじみ同士が被爆者と認められるかどうかで分断されたのです。
区域外でも有害な雨が降ったことを証明しようと、20年前に同級生らと市民団体を結成しました。会員は多い時で約260人おり、研究者と一緒に地中の放射性物質などを調べました。それでも国は取り合ってくれず、次第に会員は病に倒れ、私も胃がんを患い、会は2015年に解散を余儀なくされました。
昨年の広島高裁判決を機に、ようやく救済範囲が広がり、「黒い雨」の被害に目を向けてもらえる日が訪れた気がします。「せめて存命の元会員が、漏れなく被爆者認定を申請できるように」と元役員で再び集まり、約80人を支援しました。
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今年4月から国の新しい認定基準が運用されましたが、特定の病気になっていないと被爆者と認められない状況は変わりません。発病していない人も、不安はずっと抱えています。黒い雨の被害を
命ある限り、黒い雨に遭った人全員を被爆者と認めてもらえるよう、自分にできることをしたいと思います。
(聞き手・落合宏美)
せいき・のりお 1940年6月、広島市安佐南区(旧安佐郡安村)生まれ。原爆投下後に降った「黒い雨」の援護区域拡大を目指す市民団体「上安・相田地区黒い雨の会」の2代目会長を務め、昨年7月の広島高裁判決確定後は、当時の役員らとともに、元会員らの被爆者健康手帳の申請を支援した。