底に切れ目 地盤に載る
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Q.浮いて見える「石の宝殿」実際は?



国史跡に指定され、高砂市の
謎の存在
生石神社のご神体としてまつられるが、いつ、誰が、何のために造ったのかは、はっきりしない。
奈良時代の715年頃に編さんされた「播磨国風土記」では「作石」「大石」として記載され、「屋(家)の
ただ、「誰が」という点では「聖徳(太子)の
中世には神が造り主として登場。現在では、仏教勢力の蘇我氏と神道勢力の物部氏の戦いに関連づけたり、松本清張氏がゾロアスター教の祭壇説を唱えたり、40以上の説がある。
考古学の観点からは「横口式
県立考古博物館(播磨町)学芸課長の中村弘さん(54)は、造営時期を風土記から50年ほど前の7世紀半ばとみる。横口式石槨を持つ
石の宝殿は、
ただ内部を調べるレーダー探査(2008年)では棺を納めるための穴の有無は確認できず、決定打にはなっていない。
石工の見極め
石の宝殿は社のある正面側の反対に屋根型の突起があり、家が横になったような形であることから、最終的に引き起こすつもりだったのかも論争の一つだ。
引き起こすことは可能なのか。そのカギが火山活動でできた岩の切れ目「節理(層理)」だ。突起部の下の辺りをのぞくと、亀裂が入っている。地盤とつながっていると思われがちだが、実は切れており、地盤の上に載っているのが分かる。
郷土史愛好家らでつくる「石の宝殿研究会」の高岡一彦会長(74)は「この節理を利用して、正面側の底を掘り下げればテコの原理でころんと起こすことは可能。当時の石工はそれを見極めて造ったと伝わっている」と言う。
この節理、石工の世界で「縁が切れている」「浮いている」と言う。実際には水の上に浮いてはいないけれども、「浮石」とも呼ばれるようになった一つの理由だ。
パワースポット
公家が所蔵していた播磨国風土記の写本が江戸時代後半、一般に知られるようになってから石の宝殿は人気観光地になった。西国大名や、ドイツ人医師シーボルトも訪れ、著書にスケッチを残した。
今も多くの人を引きつける。宮司の東
科学的立場の中村さんもそのパワーには共感する。「前に立ったときの迫力。1300年前に風土記を書いた人が感じたであろう驚きを共有できる。中世の人が神様を感じたというのも行けば分かる」